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「道前太鼓、四国の祭り、小松スケートボード大会など」はここから 西条市鷹丸の西条市民公園の中に展示されている国鉄C57型蒸気機関車「春雷号」です。

C57型蒸気機関車「春雷号」 西条市鷹丸 西条市民公園内 2008.09.05
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

C57型蒸気機関車「春雷号」 西条市鷹丸 西条市民公園内 2008.09.05
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

C57型蒸気機関車「春雷号」 西条市鷹丸 西条市民公園内 2008.09.05
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
以下は案内板の解説です。
「春雷号(しゅんらいごう)」設置の経過と経歴
この蒸気機関車は、西条市が日本国有鉄道から恒久的に借り受けたもので十河信二氏(西条市名誉市民元市長、元国鉄総裁)の雅号にちなみ「春雷号」と名づけました。
この「春雷号」は、C57型の蒸気機関車で、その姿の美しさからSLの「貴婦人」と呼ばれており、昭和13年3月30日に三菱重工神戸造船所でつくられ、昭和13年4月5日に東京局高崎機関区に配属されて以来、東京・仙台・札幌・室蘭と東北地方や北海道を走る急行列車の機関車として活躍し、昭和51年3月末に廃車になりました。
この間に「春雷号」が走った距離は、3,368,516.7キロメートルで、これは、地球の赤道を約84回まわったことになります。
この「春雷号」は市民のみなさまのご協力により、この公園に設置されることになったものです。
みんなで大切に保存しましょう。」

C57型蒸気機関車「春雷号」 西条市鷹丸 西条市民公園内 2008.09.05
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

C57型蒸気機関車「春雷号」 西条市鷹丸 西条市民公園内 2008.09.05
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

C57型蒸気機関車「春雷号」 西条市鷹丸 西条市民公園内 2008.09.05
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C57型蒸気機関車「春雷号」 西条市鷹丸 西条市民公園内 2008.09.05
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●豆知識●●国鉄C57形蒸気機関車フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84C57%E5%BD%A2%E8
%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A
C57形蒸気機関車(C57がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車である。ほっそりとしたスマートで綺麗な車体であることから「貴婦人」という愛称を持っている。D51形に並ぶ日本を代表する蒸気機関車である。
誕生の経緯
1937年(昭和12年)、C55形の63号機として製造が始められた機関車が、その加えられた改良箇所があまりにも多岐に及んだため、検討の末に新形式とすることが決定され、C57形蒸気機関車として誕生をしている。
1947年(昭和22年)までの間に201両もの大量生産が行われ、本形式への信頼の高さが立証され、C51形に始まるライトパシフィックの決定版となった。
構造
C55形との主な相違点はボイラー使用圧力の上昇(14kg/cm^(2)→16kg/cm^(2))、シリンダ直径の縮小(510mm→500mm)、スポーク動輪からボックス動輪への変更などである。ボイラー使用圧力が上昇したことにより、C55形よりも石炭・水消費量の減少や出力上昇など性能が向上し、これが新形式を与える決め手になったとも言われる。C55形とC57形は共通運用となる場合も多かったが、線形や列車条件によっては混運用ができない場合もあった。
動輪の以外での形態的な変化は、煙室前端部の曲面化、蒸気ドーム キセ後端部の傾斜化、エプロンの傾斜角変更が目立つところである。なお、C57形でも110号機のように事故や腐食などの修繕や更新で、煙室前端部がC55形のように平面化されたものが数両存在する。
製造時期により、形態が若干異なっている(詳細後述)。戦後に製造されたもののうち、第4次形と呼ばれるタイプは運転室が密閉型となるなど、C59形に準ずるスタイルになっており、戦前から戦中に製造されたものとは、寸法や重量が若干異なる。
戦後に製造された3次形と4次形の中には、技術力、品質管理能力の低下により、ボイラーの性能が悪いものがあり、該当車両は一時期使用圧力を下げて運用されるなどの不便を招いていたため、1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)にかけて、本形式のうち、57両のボイラーが新造品に載せかえられている。なお、ボイラー取り替え対象車両の中には、上記以外に、X線検査の結果、不備が見つかった戦前製のものも含まれている。現在動態保存中の1号機も1958年(昭和33年)にボイラーの載せ替えが実施されている。これは戦時中に空襲で受けた損傷が原因であったと云われている。
製造メーカー
川崎車輛、汽車製造会社、三菱重工業、日立製作所の4社により製造された。後述する1号機は川崎車輛(1937年、昭和12年)、180号機は三菱重工業(1946年、昭和21年)の製造である。
製造期による違い
1次形(1 - 138)
1937年から1940年(昭和12 - 15年)の間に製造された基本形である。従台車とテンダー台車が共に一体鋳鋼製とされてた。
2次形(139 - 169)
1940年から1942年(昭和15 - 17年)にかけて製造。第二次世界大戦の開戦により、資材・工程の削減をやむなくされた。組み立て式従台車を使用し、テンダー台車枠が板枠に変更された。基本的には1次形のままで性能に大きな差はない。この形式の別名でもある「貴婦人」とは1次形と2次形を指している。
1次形と2次形の間で炭水車を振り替えたケースもある(120・121・135・145・148号機など)。
3次形(170 - 189)
1946年(昭和21年)製造。戦後の旅客用機関車の不足を補うために製造された。設計期間が無かったことから2次形からの大幅な改設計は見送られた。それでも先輪がD52用の流用であるディスク形となったり、コンプレッサーからの空気放熱管がランボード下に収められるなどの相違点が見られる。また、砂箱キセ前面が1次形や2次形と比べ傾斜している。
4次形(190 - 201)
1947年(昭和22年)製造。3次形が2次形の基本をそのまま踏襲したのに対し、本グループではC59形の設計思想を取り入れた大幅な改良が施されている。キャブ(運転室)が密閉式となり、デフレクター前部上端は45度に切り取られ、炭水車は船底形となり、ボイラーも板厚を増したものになるなど改良され、C59形によく似た外観となった。また、動力逆転機も装備されたが、燃焼室の採用は見送られている。従来のものに比べ性能は向上したが、外観の変化が比較的大きかったことについては、均整美が失われた、とするものと、近代的で力強い、とする両論がある。
運用
四国を除く全国各地で優等旅客列車の牽引を中心に使用された。特に大型機関車の入線できなかった鹿児島本線や長崎本線では、1942年に関門トンネル開通で長崎まで延長運転された特急「富士」(戦局の悪化等の理由で翌年下関発着に戻された)や戦後の特急「かもめ」「さくら」の牽引にも大活躍した。また、北陸本線(の今庄−直江津間)、信越本線の”海線”区間(直江津−長岡−新津−新潟間)、羽越本線(新潟−新発田間の白新線を含む)などのような全国各地の地方幹線(や亜幹線)でも、急行などの優等列車を牽引した。北海道でも、戦後、1960年代中期までは、小樽築港機関区所属機や釧路機関区所属機が、小樽−札幌−滝川−富良野−帯広−釧路間を、函館本線〜根室本線経由でロングラン運用されるなどして活躍した。
性能・保守面の良さを買われて長く活躍し、国鉄の旅客用蒸気機関車の代名詞となった。全長に比べてボイラが細く見え、スタイルが美しいとの理由で「貴婦人」の愛称で親しまれた。昭和30年代以降、特急・急行列車の無煙化が進むと普通列車の牽引に回ったが、大半が蒸気機関車の最終期まで残り運用された。晩年になってもディーゼル機関車の不調や両数不足などで急行列車牽引の機会があり、寝台特急の牽引事例もあった。また、日豊本線や千歳線では、貨物列車の定期運用もあった(千歳線では、主に重量貨物列車の補機として使用)。なお、C57 73・74・99・162は太平洋戦争終戦前に戦災に遭い、1949年(昭和24年)3月29日付けで廃車となっているほか、C57 106は1961年(昭和36年)8月29日に羽越本線新津−京ヶ瀬間の踏切でトレーラートラックと衝突大破して同年11月18日付けで廃車、C57 90は1963年(昭和38年)3月16日に北陸本線能生−筒石間で発生した地滑りにより土砂に埋まり同年6月18日付けで廃車となっている。
1972年(昭和47年)10月14日・15日に鉄道開通100年を記念して汐留駅〜東横浜駅間に運行された「鉄道100年記念号」の牽引には、当時紀勢本線で稼働中の7号機が上京してその任にあたっている。同機は和歌山県で現在も静態保存されている。
また、北海道を除く東日本地区において最後まで本形式が運用されていた羽越本線でも、1960年代前期に定期急行牽引任務からは外れたものの、1972年10月のダイヤ改正時に電化が完成するまでは、大阪−青森間の臨時急行「きたぐに51号」の新潟−秋田間(白新線経由)を牽引するなど、臨時急行列車や荷物列車などの牽引機として活躍した(ただし、羽越本線での普通列車と荷物列車の牽引については、同線の電化開業半年前の同年3月のダイヤ改正時に、全てD51に置き換えられている)。
なお、1972年5月の新潟植樹祭の際に、羽越本線の新津−村上間でお召列車を牽引した、当時の新津機関区所属のC57 1号機(動態保存機)については、本項目内の下記の記事で別途に記述する。
1973年(昭和48年)4月9日・10日・12日、宮崎植樹祭が開催された際に日豊本線でC57 117が牽引するお召し列車が運行された。これは蒸気機関車が牽引するお召し列車としては最後のものとなった。なお、最終日となる12日のお召し列車運行区間は宮崎駅〜延岡駅間であった。
1973年(昭和48年)10月から、日豊本線の急行列車、下り「日南3号」の宮崎駅〜都城駅間の牽引に使用された。この列車はすでにDF50形ディーゼル機関車に置き換えられていたのだが、寝台特急の増発による車両運用の都合上、再びC57形が使用されることとなった。この運用は翌年1974年(昭和49年)3月まで続き、これが国鉄で蒸気機関車が牽引する優等列車としては最後のものとなった。
1975年(昭和50年)、NHKは当時の人気アイドルであった歌手の山口百恵と漫画家の加藤芳郎が出演する、蒸気機関車を扱った特別番組を制作した。このロケのため運行された列車には岩見沢第一機関区に所属していたC57 135が使用された。そしてその年の12月14日、そのC57 135が室蘭本線の室蘭駅〜岩見沢駅間で国鉄最後の蒸機牽引旅客列車となる225列車を牽引した。同列車は本来はD51形を使用することになっており、最終日の12月14日のみ特別措置としてC57牽引となったのだが、当時岩見沢第一機関区に所属していたC57の僚機5両を差し置いて135号機が抜擢されたのは、同機が上記のNHK特別番組に「出演」したことと、同番組放映後135号機が鉄道ファンの間で「百恵ちゃん号」と呼ばれて人気を博していたことも理由の一つである、とも言われている。
外地向けのC57形
日本が領有していた台湾の台湾総督府鉄道においては1942年から1943年(昭和17 - 18年)の間に6両が製造され(川崎と日立製)、同じくC57形(C57 1 - 6)として使用された。太平洋戦争後は台湾鉄路管理局が引き継ぎ、CT270形(CT271 - 276)と改称され1982年(昭和57年)まで使用された。また1953年(昭和28年)にアメリカの援助で8両が日立で製造され、追加輸出された。その8両(CT277 - 284)は整備の関係で戦前に台湾に渡っていたグループと仕様を揃えるため特別に2次形を生産、これが日本で最後に製造された国鉄形蒸気機関車である。
主要諸元
* 全長 20,280mm
* 全高 3,945mm
* 軌間 1,067mm
* 軸配置 4-6-2(2C1) - パシフィック
* 動輪直径 1750mm
* シリンダー(直径×行程) 500mm×600mm
* ボイラー圧力 16kg/cm^(2)
* 火格子面積 2.53m^(2)
* 全伝熱面積 168.8m^(2)
o 過熱伝熱面積 41.4m^(2)
o 全蒸発伝熱面積 127.4m^(2)
+ 煙管蒸発伝熱面積 115.0m^(2)
+ 火室蒸発伝熱面積 11.4m^(2)
* ボイラー水容量 6.0m^(3)
* 大煙管(直径×長サ×数) 140mm×5500mm×18
* 小煙管(直径×長サ×数) 57mm×5500mm×84
* 機関車運転重量 67.50t
* 動輪軸重(最大) 13.96t
* 炭水車重量 48.00t
* 機関車性能:
o シリンダ引張力 12820kg
o 粘着引張力 10330kg
o 動輪周馬力 1,040PS
動態保存機
JR西日本 1号機
現役時代
1937年(昭和12年)3月22日、川崎車輛にて落成。後から発注された車両が先に完成したが、発注順に従いそれぞれC57 1とC57 2とされた。同年4月4日に水戸機関区に配属されたが、1939年(昭和14年)11月に宇都宮機関区に転属。戦時中に宇都宮機関区の空襲に遭遇し、機銃掃射を受け損傷している。以後戦後にかけて東北本線で使用され、1949年(昭和24年)10月に千葉機関区に転属して普通列車の牽引に使用されたのち、1954年(昭和29年)10月に新津機関区に転属して羽越本線などで使用された。新津への転属時には雪除けのためにキャブの屋根が延長され、ランボードにも、新津機関区の伝統でもある白線が入れられた。1958年(昭和33年)にボイラー載せ替えを実施。1961年(昭和36年)2月9日に羽越本線:村上〜間島にて急行「日本海」を牽引中、土砂崩壊現場に突入してしまったことで脱線転覆大破した。破損した車体は2か月以上にわたり事故現場に放置されていたが、4月27日に運び出され、長野工場(現・長野総合車両センター)で5か月にも及ぶ修復を受け、9月末に完了、運用への復帰を果たした[1]。修復が決定された理由として、トップナンバー機であることの他に、当時は輸送力が不足気味で機関車が足りなかったこと、ボイラーを載せ替えてから3年しか経過していないこと、台枠に損傷を負わなかったことなどがあるが、当時の新津機関区長の決断がその最大の理由である。先輪・先台車はC59戦前形の廃車発生品が数年間使用され、独特の丸穴ウェッブ付スポーク先輪をつけた姿が写真に残されている(その後同形式の廃車発生品に再交換した)。
事故から復旧後の同機は好・不調の時期が入れ替わっており、当時の乗務員の感想は「乗務割りをもらうと憂鬱になるカマ」や「トップナンバーに恥じない優秀なカマ」など、評価が分かれている。また、復旧の際、下回りの大半を入れ替え、さらに3年前にボイラーを載せ替えていることから、当時のファンから「C57 1ではなくC57 202だ」と揶揄されることもあった。
1972年(昭和47年)5月の新潟県村上植樹祭開催の際に、羽越本線の新津−村上間でのお召し列車牽引機に指定され、その直前に土崎工場(現・秋田総合車両センター)にて全般検査を兼ねて特別整備を受けた。この際には各種ケーシングバンドの材質変更(鉄→真鍮)、煙室扉ハンドルの新製、手摺類の交換(ステンレス製)、ナンバープレート位置の下げ、砂箱前方の手摺の小型化、キャブ窓枠や、炭水車縁部への化粧板取付などの改装を実施している。現在の1号機はこのときの名残を多く受け継いでいて、運転窓枠の金枠などがその証である。お召し列車牽引後は、日出谷−新津間で数回特別運転を行った後に9月23日に佐倉機関区へ異動、千葉鉄道管理局管内でも特別運転を行なった後に10月3日に梅小路機関区へと異動し、10月10日の梅小路蒸気機関車館開館を他の保存機と共に迎えている。その後、一度も車籍を抹消されることなく、現在に至っている。
SL復活運転のはじまり
蒸気機関車が国鉄線上から消えても、人々の蒸気機関車への熱意は冷めることなく、SL現役時代末期の頃から、SL復活への運動が起こった。このため国鉄は、梅小路蒸気機関車館で動態保存されていた1号機による記念臨時列車「京阪100年号」(客車は12系を使用)を京都−大阪間で運転した。運転時、沿線は大変な騒ぎとなり、帰りの運転中に人身事故を起こしてしまった(詳しくは京阪100年号事故を参照)。この事故のほか、梅小路蒸気機関車館で保存されている蒸気機関車の定期検査を担当していた長野工場が1976年(昭和51年)限りで蒸気機関車の検査を打ち切ったこともあり、国鉄における蒸気機関車の動態保存自体が危ぶまれるようになった。
1978年(昭和53年)1月5日の朝日新聞朝刊において、当時の高木文雄国鉄総裁が「蒸気機関車は産業革命の原動力となった人類の科学遺産。動く蒸気機関車を残すことは子供たちへの教育的な配慮も大きい。1か所でもいいから営業線で列車を引かせたい。」と語った。のちに高木は大井川鉄道(現・大井川鐵道)を視察している。そして1978年(昭和53年)12月の国鉄本社役員会で、1979年(昭和54年)から蒸気機関車の復活運転を行うことが決定された。京阪100年号事故の反省や、その他様々な検討結果から、運転線区は都心部から遠く新幹線と接続している山口線となり、牽引機にはC57 1号機が抜擢された。全般検査は、鷹取工場に蒸気機関車の検査設備を復活させて行うこととなった。これが現在SL列車を代表する「SLやまぐち号」である。運転に当たっては労働組合からの要求により、煙突に集煙装置と、テンダーに重油タンクが搭載された。過去にC57形が装備したことのある鷹取工場製の集煙装置は図面が見つからなかったため、図面が残っていた長野工場製のD51用集煙装置をアレンジして搭載した。また、集煙装置のシャッター開閉用動力には特急電車のドアエンジンを流用し、外観に響かぬよう集煙装置本体右側面ケーシング内に設置している。集煙装置の搭載に際し煙突の切除が必要となったが、他の集煙装置搭載の姉妹機と異なり、切除量を最小限にとどめたため、高い位置に同装置が載ることとなった。その点がそれ以前との外観上の大きな違いである。近年は同装置を外した状態での運行が多く行われているが、その際は切除した煙突長を補うためにスペーサーを介して回転火の粉止めが装備されている。
牽引される客車は12系であるが、現在はそれを改造した「レトロ客車」5両編成となっている(新山口側1号車から 展望車風 - 欧風 - 昭和風 - 明治風 - 展望室付き大正風)。7月等夏季の運転にはC56 160との重連運転が実施され、宮原総合運転所のマイテ49 2が増結されることもある。
その他にも、これまでに1号機は、七尾線・金沢−七尾間「SLときめき号」や、山陽本線・下関−小郡(現新山口)間「SLみらい号」などでも運行。2006年(平成18年)の鉄道の日には、ヘッドマークを装着せず、この日に限り汽笛の音調も昔に戻された。その影響により、現在の汽笛音は調整前とはわずかに音調が相違する。同年の定期運転最後の3日間はさらに装飾部をすべて黒く塗り潰し、より原型に近い姿とされた。
なお、「SLやまぐち号」として復活して以降の1985年(昭和60年)初頭に、鷹取工場で国鉄時代最後の解体修理が行われた。鷹取工場に残っていない、もしくは新造できない部品は、全国の国鉄工場に残されていた物をかき集めたほか、静態保存されている機関車の物を使用するなどの措置がとられた。新造となった車軸については、動輪に圧入するプレス機械が鷹取工場には無く、全国の工場に打診した結果、北海道札幌市の苗穂工場に動輪の転削装置と共に残っていることが判明した。新しい動輪と車軸を現地に送り、車軸の圧入と動輪の切削が行われた。この1985年(昭和60年)の修繕の模様はNHK特集での番組化をはじめ、各種メディアで報道されている。1995年(平成7年)には、検査のため鷹取工場に入場中阪神・淡路大震災に遭い、ジャッキ上にいた同機は転落し、ボイラーをはじめ、いたる所が大きく損傷したが、同工場の努力により全て修復された。また2005年(平成17年)末から2006年(平成18年)4月まで梅小路運転区において全般検査が再度行われ、動輪の切削、ボイラー、台枠の補修など様々な修繕が行われた。これに先立ち、2005年(平成17年)のやまぐち号での運転中に、致命的な不具合を起こしてしまい、10月、ついにはDD51形による牽引運転となる事態にまで至った。この全般検査ではその不具合を起こした部品をすべて修繕し、寿命を今後25年にまで延ばす努力がなされた。検査後の試運転の際に動輪軸受の一部に異常発熱が発生し、予定より1か月遅れとはなったが、この不具合も無事修繕されている。この時の模様も同年NHKで放送されたハイビジョン特集「SL復活!C57 1よ永遠に」で紹介されている。なお、この予定外の修繕期間延長に伴い、1号機の代替として実施されていたC56 160の山口線貸出が1か月延長され、このため本来はC56 160を充当予定だった「SL北びわこ号」が全般検査完了後最初の営業運転となった。
こうした1号機の稼働状態維持の陰には、同一メーカーで同時期に製造された5号機が鷹取工場から遠くない位置(兵庫県姫路市御立交通公園)に静態保存され、かつ国鉄OBをはじめとするボランティアの尽力で部品盗難もなく良好なコンディションを維持していた、という幸運があった。1号機の復活以降、同機で故障あるいは破損が発生した、新品調達の困難な部品の一部については、代品がこの5号機から提供されている。
2007年(平成19年)3月22日、1号機は竣工70周年を迎えた。同年度の「SLやまぐち号」運転はその前日となる3月21日より開始となり、同日には同年度の運行開始と1号機製造70周年を記念して、公募により選考された特別ヘッドマークを正面とデフレクター(除煙板)に掲げて運行された。この際、1号機は4月28−30日に1972年のお召し列車牽引時の姿を再現するかのように特別整備が実施された。菊の御紋や日章旗こそ無かったものの、復活蒸機においてお召し仕様が再現されたのは大井川鐵道のC11 190以外では初となる。さらに10月の運転日では、2006年のラストランに実現したのと同様、真っ黒な1号機として原型仕様に加えて、デフレクターのバイパス弁点検窓を塞ぐ配慮も施された。
C57 1号機登場番組
* NHK
o NHK特集よみがえれ貴婦人C571〜最後のSL解体修理〜
o 新日本紀行鉄道シリーズ(1)SLふるさとに帰る−国鉄山口線−
o 新日本探訪「汽笛よ響け〜滋賀県 米原町〜」
o ハイビジョン特集SL復活!C571よ永遠に
o ふるさと発〜古希を迎えた貴婦人〜
o NHKアーカイブス「蒸気機関車C571」
JR東日本 180号機
1999年(平成11年)には、新津市(現在は新潟市)立新津第一小学校の前庭に保存されていたC57 180が復活し、磐越西線で「SLばんえつ物語号」として運転されている。復活したSL列車の中では最長距離(片道約125キロ)を走行する。また、月に1回程度、「SL磐梯会津路号/SL郡山会津路号」として会津若松−郡山間を2日1往復する。
現役時代・保存
1946年(昭和21年)に三菱重工業三原製作所にて製造。新製時には新潟機関区に配置され、1963年(昭和38年)に新津機関区に移り1969年(昭和44年)11月8日に廃車となった。製造から一貫して新潟県内の機関区に配置され、北は秋田、南は直江津、東は会津若松までを行動範囲としていた。新潟機関区に新製配置直後は戦後混乱期の工作不良がたたってトラブルが続出していたが、1958年(昭和33年)のボイラー交換後は安定した性能を発揮し、急行日本海や佐渡などの長距離優等列車牽引に重用された。
1969年(昭和44年)に無煙化の促進によって羽越本線での運用が大幅に削減され、磐越西線の旅客列車からの運用撤退によって新津機関区のC57は大幅に減ずることになった。全般検査後1年だった同機は転属候補とされていたが、鉄道の街・新津に蒸機を1両だけでも残したいとの声が新津機関区で上がり、それに新津市も賛同、保存機として同機が選ばれることとなった。新津機関区生え抜きの他機を差し置いて同機が選ばれた理由は、番号の語呂が良く、D51 180号機やC51 180号機も同区に長年在籍しており、180という数字に特別な思い入れがあったことや、癖や故障が少なく、乗務員から人気を集めていたためである[2]。
同年9月30日に磐越西線での蒸機牽引による最終定期旅客列車[3]を日出谷−新津間で牽引後、10月12日に新津市立新津第一小学校に静態保存された。保存に際し、新津駅の引き上げ線を延長した仮設線路を校庭に敷設し保存場所まで自力で走行、市民や児童らの歓待を受け、同機自らによるくす玉割りや神事の後、惜別の長緩汽笛を何度も吹鳴した。その後蒸気圧も下がり、汽笛の音も次第に小さくなり、最後は眠りにつくようだった、と伝えられている[4]。現役期間中の最終総走行距離は1,691,096.3kmであった。この保存の様子は新潟市新津鉄道資料館に展示されている。また、同館には1号機に関する資料も展示されており、1961年(昭和36年)の羽越線事故の模様や1972年(昭和47年)のお召し列車牽引時の装飾品など、貴重な展示品も多い。静態保存から2年後には屋根が掛けられ、新津機関区(現:新津運輸区)職員やOB、新津市民らによる「新津市蒸気機関車保存協力会」や第一小学校児童の手により手厚く整備清掃を受け保存されていた。
動態復元
時が流れて1990年(平成2年)4月、高崎支社が保有するD51形498号機による「SLうるおいの新潟号」を臨時運行。その後、1996年(平成8年)から1998年(平成10年)までの3年間、磐越西線:新津−津川にて同機やC58形363号機を使用した「SLえちご阿賀野号」を運行した。これらの運行に刺激され、新津市では180号機を動態復元しようという機運が高まることとなり、1997年(平成9年)に新津市において「C57 180号を走らせる会」が結成された。復元に必要と見込まれた費用である2億円の半分を、市民らがオレンジカードを購入するなどして負担することとした。
同年、動態への復元が決定し、翌1998年(平成10年)3月に復元作業を開始、JR東日本大宮工場や大阪府のサッパボイラでの作業も1年後に完了、1999年(平成11年)3月に30年ぶりに車籍が復活した。なお、良好な状態で保存されていたことにより、同機の修繕費用は予定額の約半分で済んでいる。復活後の形態はほぼ最終時の状態とされており、前照灯は前後とも大型で光量の大きなLP403、運転台屋根は東北・信越地区に多く見られた延長型、砂箱前方には大型手摺が取付られているのが特徴である。ランボードには新津機関区伝統の白線が入れられている。新たに搭載された重油タンクや列車無線アンテナは上方から見ない限り分からないように配慮されている[5]。また、全車軸には温度センサーが取り付けられ、運行中は客車乗務員室から管理を行っている。テンダーには第一小学校の児童から贈られた記念のプレートが掲げられている。晩秋から早春にかけてスノープロウが装備されるが、これは復元後に新製されたものである。復元後にもわずかながら形態の変化が見られ、2003年(平成15年)1月から3月にかけて実施された要部検査では、煙突飾帯の撤去、非公式側(助士席側)ランボード上に搭載されていた罐水清浄装置(清罐剤送入装置)の撤去、先輪の一体圧延型車輪への交換などが施工されている。
現役時代、故障の少なかった同機であったが、2003年(平成15年)11月頃より次第に不具合が目立ち始めた。定期運行を終えた12月の検査で、一部の煙管に亀裂が入っていたことが判明し、やむを得ずこの年の「SL X'masトレイン2003年号」の牽引はD51形498号機で代行された[6]。煙管に亀裂が発生したのは重油併燃装置のバーナー取付位置の不具合が原因で、2004年(平成16年)の定期運行開始後は同装置の使用を控えることや、汽笛吹鳴を必要最低限かつ吹鳴力を弱めるなど予防策をとられた[7]。同年の定期運行終了後の検査で異常が確認されなかったことにより、「SL X'masトレイン2004年号」には同機が充当された。定期運行中、同機の不具合で運休となったのは担バネ折損による逆転器作動不能による復路の運転取り止めがある[8]。2005年(平成17年)の定期運行最終運行日の前日にも動輪軸受の異常発熱により、同じく復路の運転取り止めがあった。これらの運行中の不具合は会津若松運輸区で修繕後に夜間、単機で新津へ回送されている。
2006年(平成18年)には新製後60年を迎えているが、車籍上の通算年数は30年であったことから、他の復活蒸機と異なり還暦祝いの赤ナンバープレート化などの装飾は行われなかった。実質的な運転日数がほぼ4年を迎えた2006年(平成18年)10月22日で定期運行を一時的に終了した。 2006年(平成18年)11月から2007年(平成19年)4月にかけて、復活後初めての全般検査が大宮総合車両センターで実施された。復活運転からの累計走行キロ数は17万8949キロメートルに達した。大きな形態の変化はないが、ATS-SN型に換わってATS-Ps型を搭載した関係で、炭水車台車に速度検出装置を装備している。
前記のとおり細かい形態の変化は見られたものの、現役時代末期と殆ど変わらない姿で走り続けてきた180号機であったが、2007年10月13日から28日の期間限定で、デフレクター(除煙板)を通常型[9]から門司鉄道管理局内で多く見られた「門鉄デフ」に交換して運転された。これはJR発足20周年の企画の一つとして行われたが、同機の現役時代には門鉄デフを装備したことはない[10]。しかし、同じ3次形の175号機が末期まで門鉄デフを装備して運用されており、同機と同じ形態のK7型デフレクターを新製・装備したため、175号機を彷彿とさせる姿になった。また、蒸気ドーム前方の大型手摺も門鉄デフ装備と合わせて撤去されている。この門鉄デフでの運転が好評だったことから、2008年度の運転も初日の4月5日から5月11日までの約1か月間、再び装着の上で運用された。
「SLばんえつ物語号」を筆頭に、JR東日本新潟支社管内にて様々な臨時列車の牽引機として運行されている。客車を含めた編成は、すべて「ばんえつ物語」と同じスタイルでの運転となっているが、オリジナルヘッドマークを取り付けての運転がほとんどである。
* 2001年(平成13年)1月1日 磐越西線(津川 → 新津)「SLカウントダウン21世紀号」
* 2002年(平成14年)9月29日 信越本線(新津 - 長岡)「SLえちご街道号」
* 2003年(平成15年)10月13日 信越本線(長岡 - 直江津)「SLえちご日本海号」
* 2004年(平成16年)9月25日・26日 羽越本線(村上 - 酒田)「SL出羽街道号」
* 2005年(平成17年)10月10日 信越本線(長岡 - 直江津)「SLえちご日本海号」
* 2006年(平成18年)10月14日・15日 信越本線(長岡 - 新井)「SL信越線120周年号」
* 2007年(平成19年)10月20日・21日 信越本線(長岡 - 直江津・新井)「SLえちご日本海号」
* 2005・2006年(平成17・18年)3月 白新線・羽越本線(新潟 - 村上)「SL村上ひな街道号」
* 2003・2004年(平成15・16年)7月6日 白新線・羽越本線(新潟 - 村上)「SL村上大祭号」
支社管内以外での出張は以下のとおり。
* 1999年(平成11年)12月 陸羽東線(小牛田 - 新庄)「SL奥の細道ゆけむり号」
* 2005年(平成15年)正月 上越線(高崎 - 水上)「EL&SL重連奥利根号/重連SL奥利根号」
o D51形498号機との初の重連運転
* 2005年(平成17年)9月24日 磐越西線(郡山 - 会津若松・七日町)「SLレトロ会津あかべぇ号」
o これも復活後初の旧型客車牽引
* 2000年(平成12年)3月・2002年(平成14年)7月 品川駅展示
上記の運転履歴から分かるように、支社管内以外での貸し出し運転では、旧型客車牽引やD51形498号機との重連運転といった普段見ることのできない仕業に充当されている。特に同一イベントでのD51形498号機との併用例が多く、2000年(平成12年)7月には会津若松駅の配線を活かした同時発車・並走、翌月には津川駅において両機牽引による列車の交換を行っている。会津若松駅での同時発車・併走は毎年恒例のイベントとして年1・2回程度実施されている(ただし、2006年(平成18年)は両機の検査工程の関係のため実施せず)。
なお、新津駅2・4番線の列車接近警報や「FMにいつ」の時報、品川駅限定の東海道本線用発車メロディーには、同機の汽笛が使用されている。また、光村図書出版刊の中学2年生国語教科書には同機の保存から動態復元までを取材したノンフィクション「物語が走る」が掲載されている。
静態保存機
日本
国鉄最後の蒸気牽引旅客列車を牽引し、現在は鉄道博物館収蔵の135号機をはじめ、日本各地で静態保存されているものが多数ある。名古屋市のJR東海社員研修センターで静態保存される139号機は、1971年(昭和46年)4月17日に準鉄道記念物に指定されている。東京都大田区大森北4丁目27番地の公園には66号機が露天で展示されている。これは、圧縮空気でシリンダーを動かし、動輪が回転するように設置されている。
C57 201
C57 201
* 北海道地方
o C57 144 北海道岩見沢市 みなみ公園
o C57 201 北海道旭川市 神居古潭公園 現存唯一の4次形
* 東北地方
o C57 46 福島県福島市 児童文化センター
* 関東地方
o C57 26 埼玉県行田市 行田市役所
o C57 57 東京都世田谷区 大蔵運動公園
o C57 66 東京都大田区 児童交通公園
o C57 135 埼玉県さいたま市大宮区 鉄道博物館
o C57 186 東京都小金井市 都立小金井公園
* 中部地方
o C57 19 新潟県新潟市 鳥屋野児童公園
o C57 30 静岡県富士市 元吉原小学校
o C57 139 愛知県名古屋市 JR東海研修センター
* 近畿地方
o C57 5 兵庫県姫路市 御立公園
o C57 7 和歌山県田辺市 会津児童公園(1972年(昭和47年)10月に汐留〜東横浜間で「鉄道100年記念号」を牽引)
o C57 11 兵庫県豊岡市 豊岡市中央公園(特急「かもめ」牽引機。後に豊岡機関区に転属)
o C57 56 京都府加茂町 加茂小学校
o C57 110 和歌山県橋本市 橋本運動公園
o C57 119 和歌山県和歌山市 岡公園
o C57 128 滋賀県大津市 市立科学館
o C57 148 大阪府大阪市 共栄興業本社
o C57 160 奈良県生駒郡三郷町 三郷小学校
o C57 189 京都府与謝郡与謝野町 加悦SL広場
* 中国地方
o C57 76 広島県三原市 三菱重工三原製作所
o C57 156 島根県益田市 西公園
o C57 165 島根県浜田市 東公園
* 四国地方
o C57 44 愛媛県西条市 市民公園
* 九州地方
o C57 95 長崎県諫早市 県立総合運動公園
o C57 100 長崎県長崎市 中央公園
o C57 151 鹿児島県鹿児島市 平川動物公園
o C57 158 福岡県北九州市門司区 八坂神社 ※2005年(平成17年)5月27日解体
o C57 175 宮崎県宮崎市 青島総合運動公園 自然ノ家内
台湾
* CT271 基隆市安楽区 情人湖公園
* CT273 彰化県花壇郷 台湾民俗村
* CT278 彰化県二水郷 二水駅
* CT284 宜蘭県宜蘭市 宜蘭運動公園
注記
1. ^ 修復に際し、2号機の部品を用いたという説もあるが、2号機は昭和40年代前半まで新津機関区にて運用に就いており、同機の部品が1号機をはじめとする他機へ提供されたのは廃車後のことである。また、修復の際に部品の大半を入れ替えたという説もあるが、主要部品の殆どが修復の上再利用されており、新製・交換されたのはロッド類やボイラーケーシングなどである。
2. ^ 転属取り止めとなった後、他機との間で動輪を振り替えており、現在同機は「C57 179」と刻印された動輪を使用している。
3. ^ 1225列車、本来は同区のD51の仕業である。なお、この前運用である224列車はC57とD51による重連が定期で見られ、この180号機と現在動態保存されているD51 498号機の重連も見られた。
4. ^ 履歴簿では11月8日に廃車、それまでは第一小学校に保管とされている。
5. ^ 現役時代の煙室扉ハンドルは丸ハンドルに1本取っ手であったが、最終列車牽引前に装飾が施された際に現在の十文字の物を他機から流用している。
6. ^ なお、これは現役時代の基準では問題のない範囲ではあったが、現在の基準では労働基準監督局からボイラー使用の許可が下りないため、亀裂の発見された煙管を含む大部分の煙管の交換を新津運輸区内で実施している。
7. ^ ボイラー使用圧の降下は行われておらず、定格圧力での使用が継続した。
8. ^ 他にも空気圧縮機の不具合によりDE10形を補助機関車として連結したことが1回あった。
9. ^ ただし、バイパス弁点検口が開口されている。
10. ^ ただし新津機関区には、同様にデフレクター下部を切除した長工式デフを装備した4号機が在籍していたことがある
参考文献
* 池口英司・梅原淳『国鉄形車両 事故の謎とゆくえ』(東洋堂出版、2005年・平成17年) ISBN 4490205635
* 交友社『鉄道ファン』1997年(平成9年)10月号、1999年(平成11年)7月号
* 西日本旅客鉄道会社『梅小路90年史』(ネコ・パブリッシング)
* C57 180号機履歴簿
* 『C57 180 復活への軌跡』(ネコ・パブリッシング)
* 『新津市史』(新津市)
* 瀬古龍雄・小桧山六郎『磐越西線の100年』(郷土出版社)
* 種村直樹『貴婦人C57の軌跡』(創隆社)
外部リンク
* C57 1貴婦人、躍動!!
* 遠い汽笛-C57の全兄弟