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 2010年10月15日、伊曽乃神社祭礼の宮出しでの明神木だんじり(屋台・楽車)です。2010年はお伊曽乃さんの階段上りを中心に撮ってみました。

(西条祭り 2010 伊曽乃神社祭礼関係) 宮出し お伊曽乃さんの階段上り 明神木だんじり(屋台・楽車) 愛媛県西条市中野甲1649 2010年10月15日

 宮出しでの明神木だんじり(屋台・楽車)
(西条祭り 2010 伊曽乃神社祭礼関係) 宮出し お伊曽乃さんの階段上り 明神木だんじり(屋台・楽車) 愛媛県西条市中野甲1649 2010年10月15日
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


(西条祭り 2010 伊曽乃神社祭礼関係) 宮出し お伊曽乃さんの階段上り 明神木だんじり(屋台・楽車) 愛媛県西条市中野甲1649 2010年10月15日

 宮出しでの明神木だんじり(屋台・楽車)
(西条祭り 2010 伊曽乃神社祭礼関係) 宮出し お伊曽乃さんの階段上り 明神木だんじり(屋台・楽車) 愛媛県西条市中野甲1649 2010年10月15日
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


(西条祭り 2010 伊曽乃神社祭礼関係) 宮出し お伊曽乃さんの階段上り 明神木だんじり(屋台・楽車) 愛媛県西条市中野甲1649 2010年10月15日

 宮出しでの明神木だんじり(屋台・楽車)
(西条祭り 2010 伊曽乃神社祭礼関係) 宮出し お伊曽乃さんの階段上り 明神木だんじり(屋台・楽車) 愛媛県西条市中野甲1649 2010年10月15日
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


      ●私が撮った「2010 伊曽乃神社祭礼宮出し」の写真はここから順次ご覧ください

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      ■今後、以下の2010年の秋祭りを掲載していく予定です。
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      ■今後、掲載予定の2010年の祭り
      ●(10月22日) 三島地区伊予銀前交差点前統一運行、寒川・豊岡地区統一寄せ
      ●(10月21日) 伊予三島秋まつり氏参り・三島神社一斉参拝、寒川・中之庄・具定統一かき比べ
      ●(10月18日) 新居浜大江浜かきくらべ(大江 vs 中須賀小競り合い)・船御幸(大江 vs 中須賀鉢合せ)
        一宮神社かきくらべ

      ●(10月17日) 渦井川原かきくらべ、新居浜一宮の杜ミュージアム・旧エビスセンター前集合
        多喜浜体育館前集合・工場前かきくらべ(大江 vs 西町、西原 vs 新須賀、江口 vs 久保田小競り合い)

      ●(10月16日) 伊曽乃神社祭礼お旅所・御殿前、新居浜上部地区太鼓台統一かきくらべ
        小松だんじり統一寄せ、伊曽乃神社祭礼後夜祭(駅前・御殿前)

      ●(10月15日) 伊曽乃神社祭礼宮出し、石水会、七泰会、伊曽乃川人会、みこしのねり比べ
        石岡神社宮入り、丹原町統一かきくらべ、吉田祭り(徳威神社秋祭り)

      ●(10月14日) 石岡神社本殿祭、川之江秋祭り
      ●(10月13日) 土居中津小学校お祭り集会、川之江秋祭り、土居ファミリーマートかきくらべ
      ●(10月11日) 北川屋台新調、小松常盤祭
      ●(10月10日) 東予鶴岡八幡神社宮だし、禎瑞嘉母神社祭礼宮だし
        楢本祭、加茂神社例祭(福武祭)、原之前荒神祭、橘新宮祭、御所神社祭

      ●(10月 9日) 東予パルティ・フジ前かきくらべ、嘉母神社祭礼子供太鼓台自主運行、東予秋祭り統一運行
      ●(10月 7日) 道後温泉駅前鉢合わせ
      ●(10月 5日) 三津厳島神社鉢合わせ、石鎚神社秋祭り
      ●(10月 3日) 氷見山王神社祭り

      ■掲載完了の2010年の秋祭りなど
      ●「2010 西条市の祭り関係 北之町中組屋台新調などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り関係 子供太鼓台」などはここから
      
      ●「伊曽乃神社奉納屋台総集編」などはここから
      ●「石岡神社祭礼奉納屋台総集編」などはここから
      ●「飯積神社祭礼奉納太鼓台総集編」などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り 川西地区太鼓台総集編」などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り 川東地区太鼓台総集編」などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り 上部地区太鼓台総集編」などはここから
      ●「丹原町屋台 総集編」などはここから

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●豆知識●

●僧房(そうぼう・僧坊)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7%E6%88%BF

僧房(そうぼう・僧坊)とは、寺院内において僧侶が生活を送る居住空間及びその建物自体を指す。

概要

古代日本の寺院伽藍の構造においては全体の北側の区域に講堂を南側として、東室(ひがしむろ)・北室(きたむろ)・西室(にしむろ)の3棟の僧房を設置した。これを三面僧房(さんめんそうぼう)と呼ぶ。また、それより小規模な形態として講堂の北側に並行して北階(ほくかい)・南階(なんかい)の2棟の僧房を設置する寺院もあった。

大寺院の場合には長さ200-300尺梁行(奥行)40尺前後の大房と中庭を挟んで対となって建てられた梁行10尺余り(長さは対となる大房とほぼ同じ)小子房(しょうしぼう)から構成されていた。前者は僧侶が居住し、後者はその従者が居住する空間とされ、小子房と同じ機能を持つものとして更に中房(ちゅうぼう)も併置される場合があった。大房・小子房ともに約20尺余りのの桁行(間口)ごとに仕切られて10区画もしくはそれ以上の棟割が行われ、その1つ1つを「房」と称した。房の中は3つに分けられ、扉の付いた入口側と連子窓が付いた一番奥の部分が居室、真ん中の光の入りにくい部分が寝室に用いられ、1つの房に10名前後の僧侶が集団生活を営んだ(1人あたりに直すと2・3坪となる)。床は土間か板敷で天井を有していたが、板敷や天井は当時の講堂や金堂などの伽藍の主要施設には存在せず、あくまでも僧坊は居住・睡眠・休息の場として用いれていたことが知ることが出来る。

だが、平安時代に台頭した天台宗や真言宗では巨大な僧房は設置されず、既存の宗派(南都六宗)でも私僧房である子院を建てる高僧が登場した。また、僧房でも高僧が1人で房を独占したり、仏堂や御影堂に改装されるようになり、鎌倉時代から室町時代にかけて本来の機能を喪失していった。ただし、近世の禅宗檀林に併設された学寮の中には古来の僧房の伝統を継承した施設もあった。

なお、私僧房には○○房(坊)という個別の名(房号・坊号)がつけられるようになり、大寺院に付属する子院や塔頭の名となるようになった(京都寂光寺の本因坊など)。一方で、私僧房は寺院における寺務所・住僧の住まい(庫裏)となり、大寺院の僧房でその寺の寺務を取り仕切る僧房は本坊(ほんぼう)と称されるようになった(京都六角堂頂法寺の池坊など)。ちなみに、日本浄土宗の祖とされる法然の号は房号(法然房の略)であり、諱は源空(げんくう)である。
遺例

* 唐招提寺礼堂 - 元の東面の僧房が、改築されて今も残る。
* 元興寺極楽坊 - 元の僧房の東端を改築されたのが、現在の本堂と禅室である。

参考文献

* 太田博太郎「僧房」(『国史大辞典 8』(吉川弘文館、1987年) ISBN 978-4-642-00508-1)
* 中井真孝「僧房」(『日本史大事典 4』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13104-8)
* 今堀太逸「僧房」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-040-31700-7)
* 光井渉「僧房」(『日本歴史大事典 2』(小学館、2000年) ISBN 978-4-09-523002-3)

関連項目

* 坊官
* 宿坊
 
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 2009年5月16日に撮った、中山川大橋付近のサギのコロニーのゴイサギ(五位鷺)です。

西条市の野鳥 中山川大橋付近のゴイサギ(五位鷺) 中山川大橋・佐伯プラスチック加工・浜栄港運小松倉庫(西条市小松町)近くの鷺のコロニーにて 2009年5月16日

西条市の野鳥 中山川大橋付近のゴイサギ(五位鷺) 中山川大橋・佐伯プラスチック加工・浜栄港運小松倉庫(西条市小松町)近くの鷺のコロニーにて 2009年5月16日 [この写真は、SilkyPixで加工しています。]
NIKON D300 + NIKON AF-S VR Zoom Nikkor ED 70-300mm F4.5-F5.6G (IF)


      ●私が撮った「ゴイサギ(五位鷺)」の写真はここをクリックして順次ご覧ください

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      ■今後、以下の2010年の秋祭りを掲載していく予定です。
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      ■今後、掲載予定の2010年の祭り
      ●(10月22日) 三島地区伊予銀前交差点前統一運行、寒川・豊岡地区統一寄せ
      ●(10月21日) 伊予三島秋まつり氏参り・三島神社一斉参拝、寒川・中之庄・具定統一かき比べ
      ●(10月18日) 新居浜大江浜かきくらべ(大江 vs 中須賀小競り合い)・船御幸(大江 vs 中須賀鉢合せ)
        一宮神社かきくらべ

      ●(10月17日) 渦井川原かきくらべ、新居浜一宮の杜ミュージアム・旧エビスセンター前集合
        多喜浜体育館前集合・工場前かきくらべ(大江 vs 西町、西原 vs 新須賀、江口 vs 久保田小競り合い)

      ●(10月16日) 伊曽乃神社祭礼お旅所・御殿前、新居浜上部地区太鼓台統一かきくらべ
        小松だんじり統一寄せ、伊曽乃神社祭礼後夜祭(駅前・御殿前)

      ●(10月15日) 伊曽乃神社祭礼宮出し、石水会、七泰会、伊曽乃川人会、みこしのねり比べ
        石岡神社宮入り、丹原町統一かきくらべ、吉田祭り(徳威神社秋祭り)

      ●(10月14日) 石岡神社本殿祭、川之江秋祭り
      ●(10月13日) 土居中津小学校お祭り集会、川之江秋祭り、土居ファミリーマートかきくらべ
      ●(10月11日) 北川屋台新調、小松常盤祭
      ●(10月10日) 東予鶴岡八幡神社宮だし、禎瑞嘉母神社祭礼宮だし
        楢本祭、加茂神社例祭(福武祭)、原之前荒神祭、橘新宮祭、御所神社祭

      ●(10月 9日) 東予パルティ・フジ前かきくらべ、嘉母神社祭礼子供太鼓台自主運行、東予秋祭り統一運行
      ●(10月 7日) 道後温泉駅前鉢合わせ
      ●(10月 5日) 三津厳島神社鉢合わせ、石鎚神社秋祭り
      ●(10月 3日) 氷見山王神社祭り

      ■掲載完了の2010年の秋祭りなど
      ●「2010 西条市の祭り関係 北之町中組屋台新調などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り関係 子供太鼓台」などはここから
      
      ●「伊曽乃神社奉納屋台総集編」などはここから
      ●「石岡神社祭礼奉納屋台総集編」などはここから
      ●「飯積神社祭礼奉納太鼓台総集編」などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り 川西地区太鼓台総集編」などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り 川東地区太鼓台総集編」などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り 上部地区太鼓台総集編」などはここから
      ●「丹原町屋台 総集編」などはここから

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●豆知識●

●飯山市(いいやまし)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B1%B1%E5%B8%82

飯山市(いいやまし)は、長野県の北部にある市。 長野県においては最小人口の市で、近年は人口減少や高齢化、市街地の空洞化などの問題も多いが、それゆえに北陸新幹線の開通に期待を寄せている市民や関係者も多い。

飯山市
いいやまし
国 日本の旗 日本
地方 中部地方、甲信越地方
都道府県 長野県
団体コード 20213-4
面積 202.32km^(2)
※境界未定部分あり
総人口 23,494人
(推計人口、2011年1月1日)
人口密度 116人/km^(2)
隣接自治体 中野市、木島平村、野沢温泉村
信濃町、栄村、
新潟県妙高市、上越市
市の木 ブナ
市の花 ユキツバキ
市の鳥
市の蝶 オシドリ
ギフチョウ
飯山市役所
所在地 〒389-2292
長野県飯山市大字飯山1110-1
外部リンク 飯山市

地理

* 山 : 斑尾山、鍋倉山
* 河川 : 千曲川
* 湖沼 : 北竜湖

隣接している自治体

* 長野県
o 中野市
o 下高井郡 : 木島平村、野沢温泉村
o 上水内郡 : 信濃町
o 下水内郡 : 栄村
* 新潟県
o 妙高市
o 上越市

気候

1月の平均気温は-2.0度、8月の平均気温は24.4度。最低気温極値は-19.7度(1999年2月5日)、最高気温極値は37.6 度(1994年8月14日)、最深積雪257cm(1984年2月9日)。全域が特別豪雪地帯であり、非常に積雪量が多く、最低気温も-15度を下回ることがある。 [1]
歴史
沿革

* 1871年(明治4年)8月29日(7月14日 (旧暦)) - 廃藩置県により飯山藩が飯山県となる。
* 1871年(明治4年)12月31日(11月20日 (旧暦)) - 第1次府県統合で長野県に編入され長野県水内郡飯山町となり、同月水内郡上倉村、奈良沢村を編入。
* 1879年(明治12年)【この年】下水内郡制施行で下水内郡飯山町となる。
* 1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行。下水内郡飯山町。大池区を下水内郡常盤村に、小佐原区を同郡柳原村に分町し町制施行。
* 1951年(昭和26年)【この年】大道東区が分町し下水内郡常盤村へ。
* 1954年(昭和29年)8月1日 下水内郡飯山町。同郡秋津村、常盤村、柳原村、外様村、下高井郡木島村、瑞穂村を合併し市制施行。
* 1955年(昭和30年)4月1日 旧下高井郡瑞穂村前坂区が分市し下高井郡野沢温泉村へ。
* 1956年(昭和31年)9月30日 下水内郡大田村、岡山村を編入。

旧・下水内郡秋津村、常盤村、柳原村、外様村地区

* 1873年(明治6年)【この年】水内郡水沢村、大塚新田村を編入。小沼村、戸隠新田村を編入。小泉村、小泉新田村を編入。戸狩村、戸狩新田村を編入。
* 1874年(明治7年)【この年】水内郡顔戸村、鹿原村を編入。小泉村、尾崎村の飛地を編入。
* 1876年(明治9年)5月 水内郡水沢村、小沼村、柳新田村、大倉崎村、上野新田村、三ツ屋村が合併して常盤村となる。
* 1876年(明治9年)5月30日 水内郡大川村、山口村、藤ノ木村、四ツ屋村、南条村笹川村が合併して旭村となる。水内郡顔戸村、尾崎村が合併して寿村となる。
* 1876年(明治9年)7月 水内郡中条村、中曽根村、法寺村が合併して緑村となる。水内郡小泉村、戸狩村が合併して照里村となる。
* 1879年(明治12年)【この年】下水内郡制施行。水内郡常盤村、照里村、富倉村、旭村、寿村、緑村、蓮村、静間村は下水内郡に属する。
* 1882年(明治15年)6月3日 下水内郡緑村から中曽根村が独立。
* 1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行。
o 下水内郡蓮村、静間村が合併し秋津村が発足。
o 下水内郡常盤村、照里村、飯山町の大池組を編入し発足。
o 下水内郡旭村、富倉村が合併し柳原村が発足。同時に飯山町の小佐原組を編入。
o 下水内郡緑村、中曽根村、寿村が合併し外様村が発足。
* 1951年(昭和26年)【この年】下水内郡常盤村、飯山町大字大道東を編入。

旧・下高井郡木島村、瑞穂村地区

* 1876年(明治9年)【この年】高井郡山根村、安田村、上新田村が合併して高井郡木島村となる。
* 1876年(明治9年)5月 高井郡犬飼村、神戸(ごうど)村、前坂村、小菅村、笹沢村、針田村、関沢村が合併して高井郡高野村となる。

(※ 旧前坂村は飯山市編入後分市し野沢温泉村へ。)

* 1879年(明治12年)【この年】下高井郡制施行。高井郡木島村、下木島村、山岸村、其綿村、吉村、野坂田村、天神堂村、坂井村、高野村は下高井郡に属する。
* 1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行。下高井郡木島村、下木島村、山岸村、其綿村、吉村、野坂田村、坂井村を編入し発足。下高井郡高野村は合併を伴わず発足。
* 1892年(明治25年)10月14日 下高井郡高野村、豊郷村(現・野沢温泉村)の柏尾・北原新田・重地原区を編入し瑞穂村が発足。

(※ 旧重地原区は飯山市編入後分市し野沢温泉村へ。)

旧・下水内郡太田村、岡山村地区

* 1876年(明治9年)5月30日 水内郡下今井村、曽根村、大坪村が合併して常郷村となる。 
* 1876年(明治9年)7月 水内郡小境村、下柳沢村、北条村、五束村、堀ノ内村、蕨野村、五荷村、瀬木村が合併して豊田村となる。水内郡温井村、上境村、下境村が合併して一山村となる。水内郡桑名川村、西大滝村が合併して照岡村となる。
* 1879年(明治12年)【この年】下水内郡制施行。水内郡常郷村、豊田村、一山村、照岡村は下水内郡に属する。
* 1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行。下水内郡常郷村、豊田村が合併して太田村が発足。下水内郡照岡村、一山村が合併して岡山村が発足。

人口
Demography20213.svg
飯山市と全国の年齢別人口分布(2005年) 飯山市の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 飯山市
■緑色 ― 日本全国

■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
飯山市(に該当する地域)の人口の推移
1970年(昭和45年) 32,159人
1975年(昭和50年) 30,796人
1980年(昭和55年) 30,073人
1985年(昭和60年) 29,034人
1990年(平成2年) 28,114人
1995年(平成7年) 27,423人
2000年(平成12年) 26,420人
2005年(平成17年) 24,960人
2010年(平成22年) 23,548人
総務省統計局 / 国勢調査
行政
市長

* 飯山市長:足立正則<2010年9月15日就任>

議会

* 飯山市議長:久保田 幸治  市議会議員定数 16人(任期 2014年12月まで)

経済
産業

農業・漁業

* 米、きのこ、アスパラガス(日本一)、花、じゃがいも、ブルーベリー、豚、牛、りんご、ホップ、たばこ

製造業

* 電子精密機器 かつてiiyamaの本社があった。
* 清酒 (「水尾」、「北光正宗」) 

観光業

* スキー場、民宿

伝統産業

* 仏壇(飯山仏壇)
* 和紙(内山紙)

姉妹都市・提携都市
国内

* 魚津市(富山県)
* 大阪市(大阪府)
o 1974年(昭和49年)12月6日 - スポーツ交流スキー姉妹都市提携。

地域
教育

高等学校

* 長野県飯山北高等学校
* 長野県飯山高等学校

中学校

* 飯山市立城北中学校
* 飯山市立城南中学校

交通
鉄道路線

* 東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)
o 飯山線

(中野市) - 蓮駅 - 飯山駅 - 北飯山駅 - 信濃平駅 - 戸狩野沢温泉駅 - 上境駅 - 上桑名川駅 - 桑名川駅 - 西大滝駅 - (栄村)

道路

高速自動車国道

* 上信越自動車道豊田飯山IC(中野市)

一般国道

* 国道117号
* 国道292号
* 国道403号

都道府県道(一部)

* 長野県道38号飯山野沢温泉線
* 新潟県道・長野県道95号上越飯山線
* 長野県道・新潟県道97号飯山斑尾新井線
* 長野県道411号・新潟県道412号飯山新井線

道の駅

* 花の駅 千曲川

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
高原とスキー場

* なべくら高原
* 斑尾高原
* 戸狩温泉スキー場
* 斑尾高原スキー場
* 斑尾高原サンパティックスキー場

自然

* 信濃平
* 信越トレイル ― 新潟・長野県境をなす関田山脈沿いに整備された長距離自然歩道
* 森林セラピー基地(2006年認定)
* 北竜湖

温泉地

* 戸狩温泉 44施設
* 斑尾高原 6施設
* 瑞穂 2施設
* 上境 1施設

寺社

* 正受庵
* 真宗寺
* 大聖寺
* 本光寺
* 光蓮寺 (飯山市)
* 小菅神社

その他

* いいやま雪まつり
* 阿弥陀堂だよりの里 ― 映画『阿弥陀堂だより』のロケ地

出身有名人

* 大沼淳(文化学園理事長)
* 長谷川青澄(画家)
* 宮崎市定(歴史学者)
* 小松シゲル(ノーナ・リーヴス)
* 嶺鶯(歌手)
* 丸山健二(小説家)
* 藤井麻輝(ミュージシャン)
* 江澤岸生(元総務省大臣官房審議官)

脚注

1. ^ 気象庁(飯山市の観測史上1~10位の値)

外部リンク

* 長野県飯山市
* 日本のふるさと北信州-飯山市観光協会

* 飯山市 - ウィキトラベル
 

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          お祭り写真集は右側のリンクからご覧ください

 2010年9月1日に撮った、愛媛県西条市八丁の夕暮れです。

西条市八丁の夕景 愛媛県西条市八丁 2010年8月5日

西条市八丁の夕景 愛媛県西条市八丁 2010年8月5日
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


西条市八丁の夕景 愛媛県西条市八丁 2010年8月5日

西条市八丁の夕景 愛媛県西条市八丁 2010年8月5日
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


      ●私が撮った「夕日・朝日・夜景」の写真はここをクリックして順次ご覧ください

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      ■今後、以下の2010年の秋祭りを掲載していく予定です。
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      ■今後、掲載予定の2010年の祭り
      ●(10月22日) 三島地区伊予銀前交差点前統一運行、寒川・豊岡地区統一寄せ
      ●(10月21日) 伊予三島秋まつり氏参り・三島神社一斉参拝、寒川・中之庄・具定統一かき比べ
      ●(10月18日) 新居浜大江浜かきくらべ(大江 vs 中須賀小競り合い)・船御幸(大江 vs 中須賀鉢合せ)
        一宮神社かきくらべ

      ●(10月17日) 渦井川原かきくらべ、新居浜一宮の杜ミュージアム・旧エビスセンター前集合
        多喜浜体育館前集合・工場前かきくらべ(大江 vs 西町、西原 vs 新須賀、江口 vs 久保田小競り合い)

      ●(10月16日) 伊曽乃神社祭礼お旅所・御殿前、新居浜上部地区太鼓台統一かきくらべ
        小松だんじり統一寄せ、伊曽乃神社祭礼後夜祭(駅前・御殿前)

      ●(10月15日) 伊曽乃神社祭礼宮出し、石水会、七泰会、伊曽乃川人会、みこしのねり比べ
        石岡神社宮入り、丹原町統一かきくらべ、吉田祭り(徳威神社秋祭り)

      ●(10月14日) 石岡神社本殿祭、川之江秋祭り
      ●(10月13日) 土居中津小学校お祭り集会、川之江秋祭り、土居ファミリーマートかきくらべ
      ●(10月11日) 北川屋台新調、小松常盤祭
      ●(10月10日) 東予鶴岡八幡神社宮だし、禎瑞嘉母神社祭礼宮だし
        楢本祭、加茂神社例祭(福武祭)、原之前荒神祭、橘新宮祭、御所神社祭

      ●(10月 9日) 東予パルティ・フジ前かきくらべ、嘉母神社祭礼子供太鼓台自主運行、東予秋祭り統一運行
      ●(10月 7日) 道後温泉駅前鉢合わせ
      ●(10月 5日) 三津厳島神社鉢合わせ、石鎚神社秋祭り
      ●(10月 3日) 氷見山王神社祭り

      ■掲載完了の2010年の秋祭りなど
      ●「2010 西条市の祭り関係 北之町中組屋台新調などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り関係 子供太鼓台」などはここから
      
      ●「伊曽乃神社奉納屋台総集編」などはここから
      ●「石岡神社祭礼奉納屋台総集編」などはここから
      ●「飯積神社祭礼奉納太鼓台総集編」などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り 川西地区太鼓台総集編」などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り 川東地区太鼓台総集編」などはここから
      ●「新居浜太鼓祭り 上部地区太鼓台総集編」などはここから
      ●「丹原町屋台 総集編」などはここから

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●豆知識●

●神戸事件(こうべじけん)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6

曖昧さ回避 この項目では、幕末維新期の神戸事件について記述しています。その他の神戸事件については「神戸事件 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

神戸事件(こうべじけん)とは慶応4年1月11日(1868年2月4日)、神戸(現・神戸市)三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させたうえ、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。

この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た。

相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。

事件の発端

慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮(現・西宮市)の警備を命じた。備前藩では1月5日(1月29日)までに2,000人の兵を出立させ、このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる500人(800人説もある)は大砲を伴って陸路を進んだ。この際、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の兵庫開港(現・神戸港)に伴い、大名行列と外国人の衝突を避けるために徳川幕府によって作られた「徳川道」を通らず、西国街道を進んだことが事件の引き金の一つとなってしまう。

1月11日(2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を横切ろうとした[1]。これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信が槍を持って制止に入った。しかし、言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった[2]。

これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲、銃撃戦に発展した。この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する居留地予定地を実況検分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け、数度[3]一斉射撃を加えることに発展する。弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした[4]。威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない[5]。
事件の推移
三宮神社の史蹟碑。裏面に「昭和十年 神戸市」と文字が刻されている。史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき設置されたものと推測される

自らも現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークス[6]は激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達、アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなった[7]。備前側では、家老日置が藩兵隊に射撃中止・撤退を命令、お互いに死者も無く負傷者もほとんど無かった。

神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕した。この時点では、朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤俊輔(後の伊藤博文)が折衝に当たるも決裂するに至る。

1月15日(2月8日)、急遽、開国和親を朝廷より宣言した上で明治新政府への政権移譲を表明、東久世通禧を代表として交渉を開始した。

諸外国側の要求は日本在留外国人の身柄の安全保証と当該事件の日本側責任者の厳重処罰、すなわち滝の処刑というものであった。この事件における外国人側被害に対して処罰が重すぎるのではないかとの声もあり、また、日本側としては滝の行為は、少なくとも「供割」への対処は武士として当然のものでもあったが[8]、列強の強い要求の前に抗うことが出来ず、伊藤や五代才助(後の五代友厚)を通じた伊達宗城の期限ギリギリまでの助命嘆願もフランスのレオン・ロッシュをはじめとする公使投票の前に否決される。

結局、2月2日(2月24日)、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、2月9日(3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させるのと同時に備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで、一応の決着を見たのである。
事件の意味

神戸事件は大政奉還を経て明治新政府政権となって初めての外交事件である。結果として諸国列強に押し切られる形で滝善三郎という1人の命を代償として問題を解決する形にはなったが、これ以降、明治政府が対外政策に当たる正当な政府であるということを諸外国に示した。また、朝廷がこのときまで唱えていた「攘夷」(外国を討ち払う)政策を「開国和親」へと一気に方針転換させた事件でもあった。ただし、この「開国和親」表明は外交団に対するものであり、新政府内にも未だ攘夷を支持する者もいることから、国内に対してはその事実を明確にはしなかった。国内に対する正式な表明は翌年5月28日(1869年7月7日)に行われた新政府の上局会議における決定によるものである。

この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港や上海の様に理不尽な占領下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされたことは日本史の流れにおいても重大な出来事であった。
エピソード

* シーパワー論の提唱者として後年名を知られることになるアルフレッド・セイヤー・マハン少佐は、神戸事件の最中、兵庫港に停泊する米国艦イロコイ号の副長を務めていた[9]。
* 明治23年(1890年)に高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)を創立することになる高山紀齋は、日置帯刀の家臣として、備前藩兵の一員であった[10]。

脚注
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1. ^ 事件の発端について諸説あることは、参考文献『検証 神戸事件』冒頭「誤り多い伝承」が、『兵庫県史』『兵庫県警察史』『神戸市史』『西宮市史』『岡山県史』を比較検討している。西国街道沿いで複数のトラブルがあり、そのうちどれを伝えたかで複数の説が生じたのであろう。
2. ^ ドイツ公使ブラントは、事件翌日の5日までに、「その間にわれわれは、われわれを襲撃した備前の部隊に関する情報を収集したが、それによってこの部隊はすでに兵庫、神戸を通過する道すがら、行き交う外国人すべてに侮辱的な行動をとり、いろいろな外国人が威嚇されたなかで二人は槍で突かれて傷を負ったということが確認された。このことによって事件は一段と険悪な様相を呈することになったのである。」と回顧する。他の公使たちと情報共有化するなかで、西国街道沿いの複数の小競り合いの存在が確認できたものと思われる。参考文献『ドイツ公使の見た明治維新』136頁。ミットフォードもブラントのこの証言を自分の著書に翻訳掲載している。参考文献『英国外交官が見た幕末維新』122頁「第4章.内戦と備前事件」、(長岡祥三訳、講談社学術文庫、1998年)。
3. ^ 参考文献『ドイツ公使の見た明治維新』134頁によると、一斉射撃は「六、七回」であった。
4. ^ 黒色火薬を用いた当時の小銃の照準特性については、兵頭二十八著『有坂銃』(四谷ラウンド、1998年) 62~64頁、(光人社NF文庫、2009年)63~66頁を参照。福沢諭吉が翻訳した当時の射撃教範『雷銃操法』(慶應義塾編纂『福澤諭吉全集 第二巻』岩波書店、1959年)も参照。
5. ^ 殺意のある射撃との主張は、ミットフォード (1915年) が最右翼である。Francis Ottiwell Adams (1875年) も、同じ趣旨を記す。一方、ドイツ公使ブラント (1901~1902年) は、「アメリカ軍艦の見習い水兵とほかに一人の外国人とが軽傷を負っただけであった。これは幸運だった。日本兵が銃をかなり上に向けて射撃したためである。彼らは税関の上に翻っていたアメリカ合衆国、イタリア、北ドイツ連邦のそれぞれの国旗を狙ったものらしく、少なくとも北ドイツ連邦の旗にはたくさんの弾痕があった」と述べ、威嚇射撃説に近い叙述を残している。一方、同じブラントは、新政府から出された瀧善三郎の助命嘆願に対する態度を協議した公使会議では、「たまたま神の恩寵によって死者が出なかったからといって、それが減刑の理由となるわけのものでは決してない。殺意は疑いもなくあったからである」との態度を示した。参考文献『英国外交官が見た幕末維新』、同 The History of Jpaan, Volume2、同『ドイツ公使の見た明治維新』134、142頁。
6. ^ 萩原延壽著『遠い崖--アーネスト・サトウ日記抄 6 大政奉還』(朝日新聞社、1999年) 175~177頁の「パークスからスタンレー外相への報告、1868年2月13日付、および附属文書」に基づく叙述。ドイツ公使ブラントはつぎのように述べる。「私が、税関の建物を出て、それを囲む何の建造物もない砂地へ行ってみると、そこには多数の外国人が集まっていた。彼らは隊を組んで行進する日本の軍隊を見物しようと集まったものらしい。この広い砂地の北に接する街道を大坂に行軍して行く兵の数は数百人はいると見えた。われわれは約三百から四百歩ぐらい部隊から距離を置いていたが、しかし、ずっと近くに寄っていた外国人も多くいた。突然、部隊がこちらに向きを変えるのが見え、すぐそれに続けて一斉射撃が起こり、ピュウピュウと音を立てて弾丸が飛んできたが、ほとんどは我々の頭上を飛んで行った。最初、私は帝(ミカド)の軍隊と大君の軍隊が戦闘を始めたのだと思い、外国人居留地でこのようなことが起こることに対し、まさに憤慨しようとした矢先、二回目の一斉射撃が起こり、われわれと日本軍の間にいた外国人がどっと踵を返して逃げて来た。私は正確に事態を覚った。日本軍は見物の群衆に向かって発砲したのだ。群衆のなかにはハリー・パークス卿もいた」。参考文献『ドイツ公使の見た明治維新』133~134頁。
7. ^ 参考文献『一外交官の見た明治維新』130~131頁。「生田川の河原」とは、現在のフラワーロードである。
8. ^ 神戸事件が発生した当日、兵庫でアーネスト・サトウと面談した長州の片野十郎が、サトウの言葉を書き残している。「何分備前暴動、甚以不相済、元来行軍へ失礼致候にもせよ、仏蘭西マトロスの事に付、其者を如何様に致候とも、異論無之候得共、其跡にて各国留館へ銃撃致候段、何共不相心得、今般日本政府改革の趣に付ては、決て破約の国論に相成候故と推察致候との事」。すなわち、サトウは事件の前半・後半を区別し、「供割」については、フランスの水兵を「如何様に致候とも、異論無之」と譲歩。一方、「其跡にて各国留館へ銃撃致候段、何共不相心得」と、「留館への銃撃」を非難している。文字通り解釈すれば、サトウは、各国が臨時に領事館として使っていた幕府の旧運上所の建物に対する銃撃と表現していることになる。外国人たちを直接狙った加害射撃としての水平射撃ではなく、遠方の建物に照準を合わせた威嚇射撃であったとの説を補強する証言となろう。参考文献『近世日本国民史 67』250頁。
9. ^ 『孤高の提督アルフレッド・マハン』谷光太郎著、白桃書房、1990年、57~59頁。
10. ^ 水川秀海「高山紀齋の生涯(その1、神戸事件)」日本歯科医史学会会誌26-2、2005年9月

参考文献
日本側

* 「神戸港二於テ備前藩士暴動発砲ノ際外国人二抑留セラレシ筑前藩蒼隼丸船及久留米藩晨風艦損失救助願一件」(外務省外交史料館所蔵、アジア歴史資料センターリファレンスコード B08090131500)
* 『近世日本国民史 67 官軍・東軍交戦篇』徳富猪一郎著、時事通信社、1963年
* 『黎明期の明治日本』岡義武著、未來社、1964年
* 『増訂 明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、1966年
* 「『神戸事件 瀧善三郎』に関する諸資料」瀧善成、日本古書通信431、1980年3月 筆者は瀧善三郎の孫、執筆当時、東邦音楽大学教授
* 「維新外交の発進--明治元年の神戸事件をめぐって」内山正熊、法学研究(慶應義塾大学法学研究会)55-10、1982年
* 『神戸事件--明治外交の出発点』内山正熊著、中公新書681、1983年
* 『非命の譜』日向康著、毎日新聞社、1985年 (社会思想社、現代教養文庫1547、1994年)
* 『NHK歴史への招待 第20巻 黒船来襲』日本放送出版協会、1989年
o 「神戸事件の後始末」内山正熊
o 「明治前期の弱体外交」内山正熊
o 「開港前後の神戸」荒尾親成
o 「事件後の備前藩士」板津謙六
* 『検証 神戸事件』根本克夫著、創芸出版、1990年
* 『維新外交秘録 神戸事件』矢野恒男著、フォーラム・A、2008年
* 「慶応四年神戸事件の意味--備前藩と新政府」鈴木由子、日本歴史733、2009年6月

欧米側

* 『外国新聞に見る日本 原文編1』『外国新聞に見る日本 本文編1』(毎日コミュニケーションズ、1989年)所収の当時の英字新聞記事。
o 「ニュースの要約」1868年2月15日、ノース・チャイナ・ヘラルド(本文編1、426頁)
o 「反乱の進展 横浜3月8日日曜日 (サンフランシスコ3月31日火曜日経由) 」1868年4月1日、ニューヨーク・タイムズ (同、436頁)
o 「日本 不満な情勢 本社特派員記事 横浜1868年3月7日土曜日」1868年4月22日、ニューヨーク・タイムズ (同437頁) 
o 「大君と天皇 (ミカド) との間の戦い 合衆国公使ファン・ファルケンバークからの興味ある手紙 デイリー・ウィスコンシン4月25日付より」1868年5月1日、ニューヨーク・タイムズ (同440頁)
* The History of Japan, Volume2 1865-1871, Francis Ottiwell Adams (原著はロンドンにて1875刊、Edition Synapse社 Japan in English シリーズ31巻、2004年) ISBN 4-86166-002-5
* 『ヤング・ジャパン 2 横浜と江戸』J・R・ブラック著、ねず・まさし他訳、平凡社東洋文庫166、1970年 (原著1880年)
* 『ドイツ公使の見た明治維新』M・V・ブラント著、原潔・長岡敦訳、新人物往来社、1987年 (原著1901~1902年)
* The Story of Old Japan, Joseph H. Longford, Chapman and Hall, Ltd. London, 1910
* 『英国外交官の見た幕末維新--リーズデイル卿回想録』A.B.ミットフォード著、長岡祥三訳、新人物往来社、1985年 (講談社学術文庫1349、1998年、原著1915年)
* 『一外交官の見た明治維新 下』アーネスト・サトウ著、坂田精一訳、岩波文庫 青425-2、1960年 (原著1921年)

関連項目

* 生麦事件
* 堺事件
 

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 2010年8月7日に撮った、愛媛県今治市の今治おんまく祭り2010での池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原)の継ぎ獅子(継獅子)です。

(今治市の祭り 2010) 今治おんまく祭り 継ぎ獅子(継獅子) 池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原) 愛媛県今治市 2010年8月7日

(今治市の祭り 2010) 今治おんまく祭り 継ぎ獅子(継獅子) 池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原) 愛媛県今治市 2010年8月7日
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


(今治市の祭り 2010) 今治おんまく祭り 継ぎ獅子(継獅子) 池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原) 愛媛県今治市 2010年8月7日

(今治市の祭り 2010) 今治おんまく祭り 継ぎ獅子(継獅子) 池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原) 愛媛県今治市 2010年8月7日
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


(今治市の祭り 2010) 今治おんまく祭り 継ぎ獅子(継獅子) 池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原) 愛媛県今治市 2010年8月7日

(今治市の祭り 2010) 今治おんまく祭り 継ぎ獅子(継獅子) 池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原) 愛媛県今治市 2010年8月7日
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


(今治市の祭り 2010) 今治おんまく祭り 継ぎ獅子(継獅子) 池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原) 愛媛県今治市 2010年8月7日

(今治市の祭り 2010) 今治おんまく祭り 継ぎ獅子(継獅子) 池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原) 愛媛県今治市 2010年8月7日
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


(今治市の祭り 2010) 今治おんまく祭り 継ぎ獅子(継獅子) 池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原) 愛媛県今治市 2010年8月7日

(今治市の祭り 2010) 今治おんまく祭り 継ぎ獅子(継獅子) 池原獅子連(池原獅子若連中 愛媛県今治市菊間町池原) 愛媛県今治市 2010年8月7日
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


      ●私が撮った「今治市の祭り」の写真はここから順次ご覧ください

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      ■今後、以下の2010年の秋祭りを掲載していく予定です。
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      ■今後、掲載予定の2010年の祭り
      ●(10月22日) 三島地区伊予銀前交差点前統一運行、寒川・豊岡地区統一寄せ
      ●(10月21日) 伊予三島秋まつり氏参り・三島神社一斉参拝、寒川・中之庄・具定統一かき比べ
      ●(10月18日) 新居浜大江浜かきくらべ(大江 vs 中須賀小競り合い)・船御幸(大江 vs 中須賀鉢合せ)
        一宮神社かきくらべ

      ●(10月17日) 渦井川原かきくらべ、新居浜一宮の杜ミュージアム・旧エビスセンター前集合
        多喜浜体育館前集合・工場前かきくらべ(大江 vs 西町、西原 vs 新須賀、江口 vs 久保田小競り合い)

      ●(10月16日) 伊曽乃神社祭礼お旅所・御殿前、新居浜上部地区太鼓台統一かきくらべ
        小松だんじり統一寄せ、伊曽乃神社祭礼後夜祭(駅前・御殿前)

      ●(10月15日) 伊曽乃神社祭礼宮出し、石水会、七泰会、伊曽乃川人会、みこしのねり比べ
        石岡神社宮入り、丹原町統一かきくらべ、吉田祭り(徳威神社秋祭り)

      ●(10月14日) 石岡神社本殿祭、川之江秋祭り
      ●(10月13日) 土居中津小学校お祭り集会、川之江秋祭り、土居ファミリーマートかきくらべ
      ●(10月11日) 北川屋台新調、小松常盤祭
      ●(10月10日) 東予鶴岡八幡神社宮だし、禎瑞嘉母神社祭礼宮だし
        楢本祭、加茂神社例祭(福武祭)、原之前荒神祭、橘新宮祭、御所神社祭

      ●(10月 9日) 東予パルティ・フジ前かきくらべ、嘉母神社祭礼子供太鼓台自主運行、東予秋祭り統一運行
      ●(10月 7日) 道後温泉駅前鉢合わせ
      ●(10月 5日) 三津厳島神社鉢合わせ、石鎚神社秋祭り
      ●(10月 3日) 氷見山王神社祭り

      ■掲載完了の2010年の秋祭りなど
      ●「2010 西条市の祭り関係 北之町中組屋台新調などはここから
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      ●「伊曽乃神社奉納屋台総集編」などはここから
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●豆知識●

●宿坊(しゅくぼう)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%BF%E5%9D%8A

宿坊(しゅくぼう)は、主に仏教寺院などで修行中の僧侶が寝泊りをする建物である。僧房(そうぼう)ともいう。
概要

本来は僧侶のみが宿泊する施設であったのだが、平安時代の寺社参詣の普及により、貴族や武士、更には一般の参詣者も宿泊させるようになり、運営者も僧侶から寺院周辺の半僧半俗の経営者(御師)に移っていった。

江戸時代になると、お伊勢参りや善光寺見物が大衆化し、各地の大寺社には宿坊が整備され、一般の参詣者や観光客を泊めるようになり、特定の地域と特定の宿坊が結びつくなど、一種の観光事業を形成した。近年では高野山宿坊などでは上質さを競う傾向も見られ、露天風呂を設置した宿坊さえ見られる。一方、四国八十八箇所の多くの寺院では、巡礼者のために宿坊を直接営んでいる。

ほとんどの宿坊では、宿泊者に対して朝のお勤めとして住職の講話などを行っているが任意参加の形式の所が多い。

また、一部の寺院では、現在も直接宿坊を運営する所があり、比較的安価な宿泊料金で、精進料理を味わうことが出来、禅寺に於いては坐禅も体験する事が出来る。

関連項目

* 高野山
* 吉野山
* 僧房(僧坊)
* 塔頭
* 宿泊施設

外部リンク

* 高野山宿坊組合
 

テーマ:祭り/イベント - ジャンル:写真




          お祭り写真集は右側のリンクからご覧ください

 2010年9月1日に撮った、愛媛県西条市を流れる中山川の夕暮れの漁船です。

中山川の夕暮れの漁船 愛媛県西条市 2010年9月1日

中山川の夕暮れの漁船 愛媛県西条市 2010年9月1日
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


      ●私が撮った「夕日・朝日・夜景」の写真はここをクリックして順次ご覧ください

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      ■今後、以下の2010年の秋祭りを掲載していく予定です。
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      ■今後、掲載予定の2010年の祭り
      ●(10月22日) 三島地区伊予銀前交差点前統一運行、寒川・豊岡地区統一寄せ
      ●(10月21日) 伊予三島秋まつり氏参り・三島神社一斉参拝、寒川・中之庄・具定統一かき比べ
      ●(10月18日) 新居浜大江浜かきくらべ(大江 vs 中須賀小競り合い)・船御幸(大江 vs 中須賀鉢合せ)
        一宮神社かきくらべ

      ●(10月17日) 渦井川原かきくらべ、新居浜一宮の杜ミュージアム・旧エビスセンター前集合
        多喜浜体育館前集合・工場前かきくらべ(大江 vs 西町、西原 vs 新須賀、江口 vs 久保田小競り合い)

      ●(10月16日) 伊曽乃神社祭礼お旅所・御殿前、新居浜上部地区太鼓台統一かきくらべ
        小松だんじり統一寄せ、伊曽乃神社祭礼後夜祭(駅前・御殿前)

      ●(10月15日) 伊曽乃神社祭礼宮出し、石水会、七泰会、伊曽乃川人会、みこしのねり比べ
        石岡神社宮入り、丹原町統一かきくらべ、吉田祭り(徳威神社秋祭り)

      ●(10月14日) 石岡神社本殿祭、川之江秋祭り
      ●(10月13日) 土居中津小学校お祭り集会、川之江秋祭り、土居ファミリーマートかきくらべ
      ●(10月11日) 北川屋台新調、小松常盤祭
      ●(10月10日) 東予鶴岡八幡神社宮だし、禎瑞嘉母神社祭礼宮だし
        楢本祭、加茂神社例祭(福武祭)、原之前荒神祭、橘新宮祭、御所神社祭

      ●(10月 9日) 東予パルティ・フジ前かきくらべ、嘉母神社祭礼子供太鼓台自主運行、東予秋祭り統一運行
      ●(10月 7日) 道後温泉駅前鉢合わせ
      ●(10月 5日) 三津厳島神社鉢合わせ、石鎚神社秋祭り
      ●(10月 3日) 氷見山王神社祭り

      ■掲載完了の2010年の秋祭りなど
      ●「2010 西条市の祭り関係 北之町中組屋台新調などはここから
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●豆知識●

●心的外傷後ストレス障害(しんてきがいしょうごストレスしょうがい)またはPTSD(Post-traumatic stress disorder)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%A4%96%E5%82%B7
%E5%BE%8C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E9%9A%9C%E5%AE%B3

心的外傷後ストレス障害(しんてきがいしょうごストレスしょうがい)またはPTSD(Post-traumatic stress disorder)とは、危うく死ぬまたは重症を負うような出来事の後に起こる、心に加えられた衝撃的な傷が元となる、様々なストレス障害を引き起こす疾患のことである。[1]

心の傷は、心的外傷またはトラウマ(本来は単に「外傷」の意だが、日本では心的外傷として使用される場合がほとんどである)と呼ばれる。

心的外傷後ストレス障害は、地震、洪水、火事のような災害、または事故、戦争といった人災や、テロ、監禁、虐待、強姦、体罰などの犯罪など、多様な原因によって生じうる。
目次
[非表示]

* 1 症状
* 2 特徴と診断
* 3 嗜癖行動との関連
* 4 治療法
* 5 歴史
o 5.1 ヒステリー研究
+ 5.1.1 シャルコーによる研究
+ 5.1.2 フロイト・ジャネ・ブロイアーによる研究
+ 5.1.3 ナラティブセラピーの発生
o 5.2 戦闘ストレス反応
o 5.3 性的・家庭内暴力
o 5.4 PTSDの疾病概念を批判的に再検討する流れ
* 6 現状
* 7 関連項目
* 8 参考文献
* 9 外部リンク

症状

以下の3つの症状が、PTSDと診断するための基本的症状であり、これらの症状が、危うく死ぬまたは重症を負うような出来事の後、1ヶ月以上持続している場合にはPTSD、1ヶ月未満の場合にはASD(急性ストレス障害)と診断する(DSM-4 TR)。[1]

* 精神的不安定による不安、不眠などの過覚醒症状。
* トラウマの原因になった障害、関連する事物に対しての回避傾向。
* 事故・事件・犯罪の目撃体験等の一部や、全体に関わる追体験(フラッシュバック)

患者が強い衝撃を受けると、精神機能はショック状態に陥り、パニックを起こす場合がある。そのため、その機能の一部を麻痺させることで一時的に現状に適応させようとする。そのため、事件前後の記憶の想起の回避・忘却する傾向、幸福感の喪失、感情鈍麻、物事に対する興味・関心の減退、建設的な未来像の喪失、身体性障害、身体運動性障害などが見られる。特に被虐待児には感情の麻痺などの症状が多く見られる。

精神の一部が麻痺したままでいると、精神統合性の問題から身体的、心理的に異常信号が発せられる。そのため、不安や頭痛・不眠・悪夢などの症状を引き起こす場合がある。とくに子供の場合は客観的な知識がないため、映像や感覚が取り込まれ、はっきり原因の分からない腹痛、頭痛、吐き気、悪夢が繰り返される。
特徴と診断

診断の前提として、「危うく死ぬまたは重症を負うような出来事」が存在することが必要である。[1]
主に以下のような症状の有無により、診断がなされる。

恐怖・無力感
自分や他人の身体の保全に迫る危険や事件その人が体験、目撃をし、その人の反応が強い恐怖、無力感または戦慄に関わるものである。
心的外傷関連の刺激の回避や麻痺
心的外傷体験の想起不能や、感情の萎縮、希望や関心がなくなる、外傷に関わる人物特徴を避ける等。
反復的かつ侵入的、苦痛である想起
悪夢(子供の場合はっきりしない混乱が多い)やフラッシュバック、外傷を象徴するきっかけによる強い苦痛
過度の覚醒
外傷体験以前になかった睡眠障害、怒りの爆発や混乱、集中困難、過度の警戒心や驚愕反応

これらの症状が1か月以上持続し、社会的、精神的機能障害を起こしている状態を指す。症状が3か月未満であれば急性、3か月以上であれば慢性と診断する。大半のケースはストレス因子になる重大なショックを受けてから6か月以内に発症するが、6か月以上遅れて発症する「遅延型」も存在する。

記憶

現在から過去にさかのぼる「出来事」に対する記憶が、診断に重要である。しかしながら、 1)重大な「出来事」の記憶  2)それほど重大でなかったが事後的に記憶が再構成される  3)もともとなかった「出来事」が、あたかもあったかのように出来事の記憶となる  このような3つの分類ができる点に留意する必要があろう。
嗜癖行動との関連

PTSDを持つ人はしばしばアルコール依存症や薬物中毒といった嗜癖行動を抱えるが、それらの状態は異常事態に対する心理的外傷の反応、もしくは無自覚なまま施していた自己治療的な試みであると考えられている。しかし、嗜癖行動を放置するわけにはいかないので、治療はたいがい、まずその嗜癖行動を止めることから始まる。


治療法

PTSDに関するエビデンスは集約されつつあるが、BMJ Clinical Evidenceによると、現在効果があるとされているのは薬物療法においてはフルオキセチンとパロキセチンである。 精神療法においては認知行動療法であり、内容としてはEMDRと長期持続暴露がそれにあたる。

おそらく効果がないとされているものは、薬物療法においてはVenlafaxineであり、精神療法においてはデブリーフィングと指示的カウンセリングである。

他の治療法の効果は不明である。
歴史

PTSDの研究には、大きく分けて三つの流れがある。「ヒステリー研究」「戦闘ストレス反応」「性的・家庭内暴力」の三つである。
ヒステリー研究
シャルコーによる研究

第一の流れは、19世紀後半から始まったヒステリー研究、女性の心的外傷の原型である。19世紀後半、フランスの神経学者ジャン=マルタン・シャルコーによってヒステリー研究がされる。シャルコーは患者の運動麻痺、感覚麻痺、痙攣、健忘に注目した。シャルコーはヒステリーを大神経症と呼び、患者を解説のため大衆の前に展示した。ヒステリー患者は、絶え間ない暴力やレイプを逃れてきた若い女性たちであった。シャルコー以前の時代にはヒステリー患者たちの訴えは疑われ、詐病とされていたが、この研究によって患者たちの訴えることは真正であり、客観的なものであるとの証明がなされ、新たな研究分野として確立されたのである。シャルコーは死後、「迫害されてきた人たちを解放したパトロン」と呼ばれる。
フロイト・ジャネ・ブロイアーによる研究

シャルコー後、この分野の研究をしたものは症状に注目したシャルコーに対し、原因に注目をした。中でもピエール・ジャネとジークムント・フロイトのライバル意識は強く、彼等は患者との対話によって新しい発見者になろうとした。この研究法は大きな成果をもたらし、それぞれ近い結論に辿り着いた。外傷的な出来事に関する、耐え難い情動反応が一種の変成意識をひきおこし、この変成意識がヒステリー症状を生んでいるという結論である。ジャネはこれを「解離」と呼び、ヨーゼフ・ブロイアーとフロイトは「二重意識」と呼んだ。
ナラティブセラピーの発生

ヒステリーにおける身体症状は、強烈な心理的混乱をひきおこす事件が、不自然な形で記憶から追放されたために形を変えて現れたものだと分かった。1890年代半ばまでには、外傷記憶とそれに伴う強烈な感情を取り戻させ、言語化することによってヒステリー症状が軽快するという発見もされた。

どんな薬物療法も精神療法技法も用いない、素朴ともいえるこの治療法は、フロイトによって除反応(Abreaktion)またはお話し療法、ブロイアーによってカタルシス療法と呼ばれたが、これが現在のナラティブセラピー(Narrative therapy)の原型であり、なおかつ精神分析療法の基礎ともなっている。

現在ではPTSD患者やアダルトサヴァイヴァーの治療の全行程は、ここに始まりここに終わるといっても過言ではなく、今日では「嘆きの作業(グリーフワーク)」(Grief Work)ともいう。
戦闘ストレス反応

第二の流れは、砲弾神経症(シェルショックともいう)、戦闘ストレス反応である。この研究は、第一次世界大戦における塹壕戦の経験を踏まえ、戦後米国と英国から始まり、ベトナム戦争後に頂点を極めた。戦闘ストレス反応は、戦争において精神的に崩壊する兵士が驚くべき多数に上ったことから認知されはじめた。

友人たちの手足が一瞬にして吹き千切れるのを見、閉じ込められ孤立無援状態におかれたり、一瞬にして吹き飛ばされ殺されるという恐怖から気を緩める暇もないという状況が、驚くべき現象を生み出したのである。兵士たちはヒステリー患者と同じ行動をし始めた。金切り声ですすりなき、金縛りで動けなくなった。感情が麻痺し、無言、無反応となった。健忘が激しくなった。

軍の伝統的な立場のものは、この現象を臆病者であるからだと結論し、処罰と脅迫による電気ショック治療を提唱した。進歩的なものは、これを士気の高い兵士にも起こりうるれっきとした精神障害であると人道的治療を進めた。その後の調査の過程で、これらの一部の状態に対してASDやPTSDという名称がつけられたのである。
性的・家庭内暴力

第三の流れは、ごく最近認知されてきた性的暴力と家庭内暴力の外傷である。19世紀後半のヒステリー研究は、性的暴力の研究でつまづいてしまった。当時は、家庭内に性的暴力が多く存在するといった概念がなかったため、フロイトがその研究を退けたのである。
PTSDの疾病概念を批判的に再検討する流れ

ここまで、PTSDの歴史を述べてきた。“The Harmony of Illusions: Inventing Post-Traumatic Stress Disorder”(『PTSDの医療人類学』)[2]は、その疾病概念がいかに構成され現実化してきたのかを批判的に問うている。

PTSDに関する多くの研究や発展は戦闘帰還兵を対象にしたものであった。最も頻度の多いPTSDは、戦争における極限状態が生み出す外傷より、市民生活の中での性的暴力や家庭内暴力であるといった認識がなかったのである[3]。

家族という密室を隠れ蓑にして、幼少時から長期にわたり、親をはじめとした大人たちから受けるさまざまな形の児童虐待が、はるか後年、成人してから多様な症状を生じさせることが発見され、PTSDの一種として検討されるようになった。ジュディス・ハーマンは「複雑性トラウマ(complex trauma)」[3]、ヴァン・デル・コルクは「複合型トラウマ」(combined-type trauma)[4]という概念を提示している。
現状

犯罪の被害者や交通事故や自然災害の被災者などにも同様の診断が示されることとなり、PTSDの診断名は広く一般的に使用されるに至った。

日本では阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、新潟少女監禁事件、JR福知山線脱線事故の時に広く病名が知られるようになった。また、1996年のTBSのテレビドラマ『真昼の月』も用語の普及を促したと考えられる。
関連項目

* 精神科医
* 臨床心理士
* 精神障害の診断と統計の手引き
* 急性ストレス障害
* 複雑性PTSD
* 抑圧された記憶
* アダルトサヴァイヴァー
* フラッシュバック (心理現象)
* 災害心理学
* 児童虐待
* EMDR
* 虚偽性障害
* パニック障害
* うつ病
* ドクターハラスメント
* アカデミックハラスメント
* 裁判員制度
* 戦場でワルツを - アリ・フォルマン監督作品。実際にレバノンで従軍経験のある監督が『PTSDで失われた自らの従軍時代』を思い出すために行動するドキュメンタリー映画。アカデミー賞外国語部門にもノミネートされている。

参考文献

1. ^ a b c 災害時地域精神保健医療活動ガイドライン p27「外傷後ストレス障害」項目A
2. ^ Young, A.:"The Harmony of Illusions: Inventing Post-Traumatic Stress Disorder", Princeton University Press,1995 ISBN 0-691-01723-9(邦訳 A.ヤング著 中井 久夫・大月 康義・下地 明友・ 辰野 剛・内藤 あかね訳 『PTSDの医療人類学』 みすず書房,2001年 ISBN 4-622-04118-9)
3. ^ a b Harman, J.L.:"Trauma and Recovery", Basic Books, New York, 1992(邦訳 J.L.ハーマン著 中井久夫訳『心的外傷と回復』みすず書房, 2004年,第6版,第1章 ISBN 4-622-04113-8)
4. ^ van der Kolk, B.A.:"Trauma and Memory", Psychiatry and Clinical Neurosciences, 1998年, 52 (Suppl.), pp97-109

外部リンク

* こころの病気を詳しく知ろう:PTSD みんなのメンタルヘルス総合サイト(厚生労働省)
* 犯罪被害者等支援のための地域精神保健福祉活動の手引 -精神保健福祉センター・保健所等における支援-(PDFファイル,96KB,日本語)
* 災害地域精神保健医療活動ガイドライン(PDFファイル,445KB,日本語)
* Guidelines for Local Mental Health Care Activities after a Disaster(PDF file,285KB,英語)
* 心的外傷後ストレス障害(PTSD)体験談(交通事故被害者の体験談)
* (百科事典)「PTSD」 - Medpediaにある「心的外傷後ストレス障害」についての項目。(英語)
 

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