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      ●「四国の祭りの西条だんじり・東田太鼓台・高尾神社例大祭
        丹原上町御輿樂車・伊曽乃神社春季例祭など」はここから

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 西条市坂元の天満神社のクスノキ(楠)とその北側にある坂元観音堂です。天満神社のクスノキ(楠)は昭和31年11月3日に愛媛県指定天然記念物になっていて、天満神社の氏子は坂元と北山とのことです。

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
 以下は西条市の広報2008年8月号より引用させていただきました。
http://www.city.saijo.ehime.jp/kouhou/200808/20080835.pdf
「ふるさと探訪 第39回 天満神社のクスノキ
 坂元にある天満神社は、元の坂元村の村社で、菅原道真公を祭っています。天満神社には、境内全体を覆うような大きなクスノキがあります。
 その大きさは、根周り17メートル、目通り9・7メートル、樹高25メートルに及び、枝は東に18メートル、西に17メートル、南に24メートル、北に25メートル張り出しています。この偏らない枝張りの美しい樹形は、県下一ともいわれています。
 クスノキは、暖地を好む常緑の高木で、関東以南の低山林地から海岸近くに多く見られます。良い香りを放つ油分を含んでおり、この油分が樟脳の原料となります。そのため、古くからクスノキの葉や煙は、防虫剤や鎮痛剤として用いられ、その防虫効果から、家具や彫刻の材に広く用いられてきました。また、クスノキは葉が厚く葉の枚数も多いため、交通騒音低減のために街路樹として活用されています。市内では、大町の「くすのき通り」などに植えられています。
 天満神社のクスノキは昭和31年11月3日に愛媛県の天然記念物に指定されました。
 ■住所 坂元甲259 −1■駐車場 あり」


天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
 現地に立てられている西条市教育委員会の説明板の内容です。
「県指定天然記念物 天満神社の楠
 くすの木は、関東から九州にかけての暖地に生える常緑の木である。材は堅く光沢もあり、建材・器具材などに用いられ、芳香を放つ。油分は防虫剤・香料・医薬品などの原料に使われる。
 天満神社のくすは、樹齢は明らかでないが、根まわり17m、目通り9.7m、樹高25mもの大木である。また枝張りは東に 18m、西に17m、南に24m、北に22mも広がり、境内のほとんどを覆うほどであり、その端整な樹形は県下一と言われている。」

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
 左の碑文には「菅原道真公御神徳記」が記されていました。
「菅原道真公御神徳記
 天満神社の御祭神菅原道真公は五才で和歌を詠み、十一歳で詩を作り、白楽天の再来と言われた。宇多天皇に仕えて、皇太子相伝の壷切剣の制を創始し、長年踏襲の遣唐使を廃止し、学者としては、三代実録、類聚国史その他の編者に当り、右大臣にまでなったが、左大臣藤原時平の讒訴にあって遂に太宰権師に落され給うた
 東風吹かば 匂おこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
 住み慣れた紅梅殿を後にして配所に行かれたが、権師は名誉長官で実際の仕事はない。
 郡府楼は僅かに灰色を見 観音寺は只鐘声を聴く
 と歌われた様に、配所にひっそりと暮して法皇や帝の御恩を懐かしく思い起されるばかりであった
 去年の今夜清涼に侍し 秋思の詩篇独り腸を断つ
 恩賜の御衣ここに在り 棒持して毎日餘香を拝す
 学問の神 和歌の神 書の神 剣の神 そして梅花をこよなく愛された丑年丑時生まれの神様道真公が、無実の罪に落されて配所に寂しく斃ぜられた
 延喜三年(西暦905年)二月生誕と同じ二五日であった
 人々はその悲運を悲しみ 学徳を慕って神社を建てたが、その数は現在全国で一万、霊験天に満ち、祈れば必ず開いて下さる天満神社−当社はその一郷一社の天神さまなのである
    平成元年四月吉日
          天満神社元宮司 玉井忠臣撰文」

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29
 天満神社神殿とクスノキ(楠)
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29

天満神社のクスノキ(楠)と坂元観音堂 西条市坂元 2008.06.29
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
 坂元観音堂は、天満神社の北側にあり、昭和63年10月に新築落成し、本尊は十一面観世音菩薩で、「西条新西国」の10番札所になっています。

天満神社・坂元観音堂の所在地地図・アクセス


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●豆知識●

●天神信仰
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E4%BF
%A1%E4%BB%B0

天神信仰(てんじんしんこう)は、天神(雷神)に対する信仰のことであり、特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。本来天神とは国津神に対する天津神を指して言う言葉であり特定の神を指していう言葉ではなかったが、道真が死後火雷天神と呼ばれ雷神信仰と結びついたことなどを由来とし、道真の神霊に対する信仰もまた天神信仰と称するようになった。
天満宮の臥牛。菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。
天満宮の臥牛。菅原道真と牛との関係は深く「道真の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時牛が道真を泣いて見送った」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。これにより牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされ臥牛の像が決まって置かれている。

概要
藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された道真は失意のうちに没した。彼の死後、疫病がはやり、日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死した。さらには清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。元々京都の北野の地には火雷天神という地主神が祀られており、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした(御霊信仰も参照のこと)。道真が亡くなった太宰府にも太宰府天満宮が建立された。また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に一夜にして七本の松が生えたという話しにより、勅命により大阪天満宮(天満天神)が建立された。987年には「北野天満宮大神」の神号が下された。また、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられた。

平安時代末期から鎌倉時代ごろには、怨霊として恐れられることは少くなった。この時代に書かれた『天神縁起』によれば、この時代には天神様は慈悲の神、正直の神として信仰されるようになっていた。江戸時代には、道真が生前優れた学者・歌人であったことから、天神は学問の神として信仰されるようになった。

元々の火雷天神は天から降りてきた雷の神とされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから農耕の神でもある。各地にも火雷天神と同様の伝承とともに天神が祀られていたが、火雷天神が道真と同一視されたことから、各地に祀られていた天神もまた道真であるとされるようになった。また、北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われた。天神(道真)を祀る神社は天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などという名称で、九州や西日本を中心に約一万社(岡田荘司らによれば3953社)あって分社の数は第3位である。

なお、北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではない。そのため、北野天満宮と太宰府天満宮では「総本社」「総本宮」という呼称は用いず、「天神信仰発祥の地」という言い方をしている。

天神信仰の例
北陸
福井県や富山県では、長男が誕生するとそれ以後の正月、床の間に天神像(木彫や掛軸)を飾り、福井では1月25日にカレイを供える風習がある。この掛軸などは、母方の実家から送られる。これは幕末の頃に教育に熱心であった福井藩藩主松平春嶽が領民に天神画を飾るよう推奨し、それを富山の薬売りが広めたという説がある。また、石川県など前田藩の他の支配地域や隣接地域でも同様の風習があった。金沢市には正月に天神と複数の従者の木像を飾る風習が昭和30年代まで見られた。前田家は菅原氏の出を称しており、家紋が天神の神紋と同じ梅鉢紋であるのも、そのためとされる。ちなみに前田家の家紋は「剣梅鉢」と呼ばれている。

広島県北部
子供の初節句に、天神像等の人形を贈る。三次人形を参照。

●天満宮
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE

天満宮(てんまぐう、てんまんぐう)は、政治的不遇を被った菅原道真の怒りを静めるため神格化し祀(まつ)っている神社。御霊信仰の代表的事例である。「天神」(てんじん)、「天神さん」とも呼ばれる。社名は、天満神社(てんまんじんじゃ、てんまじんじゃ)、祭神の生前の名前から菅原神社(すがわらじんじゃ)、天神を祀ることから天神社(てんじんしゃ)などとなっていることもあり、また、鎮座地の地名を冠していることもある。ただし、「天神社」については、天津神を祀る神社という意味のものもあり、これは菅原道真とは関係がない。

道真を「天神」として祀る信仰を天神信仰という。

由来など
道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになった。「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来という。

道真が生前優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ(人によっては“平安時代きっての秀才”と評する事もある)、今なお多くの受験生が合格祈願に詣でる。参拝して筆を買うと受験に利益があるともいう。道真が梅を愛し、庭の梅の木に

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅がシンボルになっていることが多い。また道真と牛にまつわる様々な伝承から、天満宮では牛を神使(祭神の使い)としている。

日本三天神
道真が大宰府に流されていった道筋に主要な天満宮の多くはあり、その内特に道真と関係が深いという北野・太宰府の二つに大阪・防府のいずれかを入れた三つの天満宮については、日本三天神と呼ばれる。

京都北野にある北野天満宮は、道真が好んだという右近の馬場に朝廷が菅公の怨霊を鎮めるために建立され、天満宮の総元締とされる。しかし実際には、北野よりも太宰府のほうが天満宮の総本宮と見做されることがある。これは、菅公霊廟であり、太宰府の本殿が道真の墓の上に建立されたことによる(通常神社は魂のみを祭るだけに珍しい)。太宰府は正月や受験シーズンなどには、全国から多くの参拝客を集めるほか、郵便やファクシミリにより多くの祈願依頼が寄せられている。警察庁が毎年末にまとめる年末年始の人出予想においては、太宰府は常に200万人前後の参拝客があると見込まれており、九州・沖縄地域で最多なのはもちろん、全国規模でも上位にランクされている。

もちろん、他の天満宮も古くからそれぞれの地元で篤く信仰されてきた歴史があり、受験シーズンには地元を中心に多くの参拝者を集めている。三天神以外にも、東京の亀戸天神社、湯島天満宮は首都圏でも大規模なもので、首都圏地区の受験生が多く訪れる。

日本全国の天満宮

北海道地方

* 天満宮(小樽市)
* 栗山天満宮(夕張郡栗山町)
* 錦山天満宮(江別市)
* 茨戸天満宮(札幌市北区)
* 平岸天満宮(札幌市南区)
* 真駒内天満宮(札幌市南区)
* 弥彦神社(札幌市中央区)
* 琴似神社天満宮(札幌市西区)

東北地方

* 弘前天満宮(青森県弘前市)
* 榴ヶ岡天満宮(宮城県仙台市宮城野区)
* 小平潟天満宮(福島県耶麻郡猪苗代町)
* 北田天満宮(福島県双葉郡楢葉町)
* 鶴岡天満宮 (山形県鶴岡市)

関東地方

* 芳賀天満宮(栃木県芳賀郡芳賀町)
* 桐生天満宮(群馬県桐生市)
* 北野天神社(埼玉県所沢市)
* 天満宮(千葉県白井市)
* 湯島天満宮(東京都文京区)
* 亀戸天神社(東京都江東区)
* 平河天満宮(東京都千代田区)
* 谷保天満宮(東京都国立市)
* 穴澤天神社(東京都稲城市)
* 布多天神社(東京都調布市)
* 町田天満宮(東京都町田市)
* 荏柄天神社(神奈川県鎌倉市)

中部地方

* 小松天満宮(石川県小松市)
* 天満神社(福井県敦賀市)
* 高天神社(静岡県掛川市)
* 上野天満宮(愛知県名古屋市千種区)
* 桜天神社(愛知県名古屋市中区)
* 山田天満宮(愛知県名古屋市北区)
* 有松天満社(愛知県名古屋市緑区)
* 北野天神社(愛知県江南市)
* 岩津天満宮(愛知県岡崎市)
* 加納天満宮(岐阜県岐阜市)
* 長良天神神社(岐阜県岐阜市)
* 飛騨天満宮(岐阜県高山市)

近畿地方

* 天満宮(滋賀県守山市)
* 文子天満宮(京都府京都市下京区)
* 北野天満宮(京都府京都市上京区)日本三大天神
* 菅原院天満宮(京都府京都市上京区)
* 霊光殿天満宮(京都府京都市上京区)
* 菅大臣神社(京都府京都市中京区)…通称「菅大臣天満宮」
* 錦天満宮(京都府京都市中京区)
* 吉祥院天満宮(京都府京都市南区)
* 長岡天満宮(京都府長岡京市)
* 菅原神社(大阪府堺市堺区)…通称「堺天神」
* 蹉?天満宮(大阪府枚方市)
* 大阪天満宮(大阪府大阪市北区)日本三大天神・浪華菅廟・天満天神
* 綱敷天神社(大阪府大阪市北区)…異称「綱敷天満宮」
* 露天神社(大阪府大阪市北区)…通称「お初天神」
* 淀川天神社(大阪府大阪市北区)
* 福島天満宮(大阪府大阪市福島区)
* 天神社(大阪府大阪市福島区)
* 松川神社(大阪府大阪市東淀川区)…異称「松川天満宮」
* 菅原天満宮(大阪府大阪市東淀川区)
* 安居神社(大阪府大阪市天王寺区)…異称「安居天満宮」
* 天神ノ森天満宮(大阪府大阪市西成区)…異称「紹鴎森天満宮」「子安石天満宮」「天下茶屋天満宮」
* 生根神社(大阪市住吉区)(大阪府大阪市住吉区)…異称「奥ノ天神」
* 道明寺天満宮(大阪府藤井寺市)
* 服部天神宮(大阪府豊中市)…通称「足の神様」
* 上宮天満宮(大阪府高槻市)
* 菅原神社(上野天満宮)(三重県伊賀市上野)
* 菅原天満宮(奈良県奈良市)
* 天満神社(奈良県宇陀市榛原区)
* 和歌浦天満宮(和歌山県和歌山市)
* 津秦天満宮(和歌山県和歌山市)
* 天満神社(兵庫県宝塚市)
* 北野天満神社(兵庫県神戸市中央区)
* 綱敷天満宮(兵庫県神戸市須磨区)
* 曽根天満宮(兵庫県高砂市曽根町)
* 廣畑天満宮(兵庫県姫路市広畑区)

山陰・山陽・四国地方

* 御袖天満宮(広島県尾道市)
* 沖友天満宮(広島県呉市豊町)
* 硯井天満宮(岡山県玉野市)
* 滝宮天満宮(香川県綾歌郡綾川町)
* 綱敷天満宮(愛媛県今治市)
* 潮江天満宮(高知県高知市)
* 菅原天満宮(島根県松江市)
* 白潟天満宮(島根県松江市)

山口県・九州地方

* 防府天満宮(山口県防府市)日本三大天神
* 冠天満宮(山口県光市)
* 柳井天満宮(山口県柳井市)
* 太宰府天満宮(福岡県太宰府市)日本三大天神・道真墓所
* 水鏡天満宮(福岡県福岡市中央区)…福岡市の中心「天神地区」の由来
* 鏡天満宮(福岡県福岡市博多区)
* 綱敷天満宮(福岡県福岡市博多区)
* 綱敷天満宮(福岡県築上郡築上町)
* 水田天満宮(福岡県筑後市)
* 北野天満宮(福岡県久留米市)
* 詩島天満宮(長崎県長崎市)
太宰府を舞台にした歌「飛梅」を作ったシンガーソングライター・さだまさしが自身の所有する島へ、太宰府から勧請したもの。
* 國片主神社(国分天満宮)(長崎県壱岐市芦辺町)
* 天満神社(長崎県壱岐市郷ノ浦町長峰本村触2127番)

関連項目
* 初天神(毎年1月25日に天満宮で行われる、年の初めの祭りが描かれた作品)
* 洛陽天満宮25社順拝(巡礼)

●菅原道真
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F

菅原 道真(すがわら の みちざね、みちまさ、どうしん、正字体では菅原 道眞、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は日本の平安時代の学者、漢詩人、政治家である。特に漢詩に優れた。33歳のときに文章博士に任じられる。宇多天皇に重用され右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷されそこで没し、為に、朝廷に祟りをなし天神として祀られる。現在は学問の神として親しまれる。

家系
父は菅原是善(これよし)、母は伴(とも)氏(名は不詳)。菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人(ふるひと)のとき土師(はじ)氏より氏を改めたもの。祖父菅原清公(きよとも)と父はともに文章博士(もんじょうはかせ)を務めた学者の家系であり、当時は中流の公家であった。母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している(古代の大伴氏が淳和天皇の避諱で改名した)。

正室は島田宣来子(島田忠臣の娘)。子は長男・菅原高視や五男・菅原淳茂(父の没後に文章博士)をはじめ男女多数。子孫もまた学者の家として長く続いた。高視の曾孫・道真五世の孫が孝標で、その娘菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たる。 道真は学問だけでなく、武芸にも優れ、若い頃都良香亭で矢を百発百中射ったという伝承もある。しかし、この伝承については疑わしい点が多いとも言われる。

道真の子孫の地域として岡山県勝央町が例で、高視を含め7代知頼が従五位備中美作守 として赴任。菅家之組となり、その子、眞兼が美作押領使として定着。眞兼の後3代目が、菅家7流の祖と言われる現在の姓で有元・広戸・福光・植月・原田・高取・江見となる。太平記では山名氏と赤松方として争い、また隠岐島から脱出した後醍醐天皇と共に菅家党として、元徳2年(1330年)4月3日、京都猪熊合戦で武田ら鎌倉幕府の六波羅軍と戦った。その時に戦死した高取種佐は、大正8年(1919年)11月、勤皇の功績で正五位を贈られた。菅一族は他文献にも散見する。いわゆる国人衆として在地に地盤を築き上げていった。有名な子孫として、柳生宗厳、前田利家、大隈重信、菅直人、松平定知などがいるといわれるが、著名であるがゆえに仮冒が多い点にも留意すべきである。

生涯
喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説もあるため、本当のところは定かではない。

道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観4年(862年)、18歳で文章生となった。貞観9年(867年)には文章生のうち二名が選ばれる文章得業生となり、正六位下に叙せられ、下野権少掾となる。貞観12年(870年)、方略試に中の上で合格し、規定によれば3階位を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうというので1階のみ増して正六位上に叙せられた。翌年には玄蕃助、さらに少内記に遷任。貞観16年(874年)には従五位下となり兵部少輔、ついで民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877年)、式部少輔に任ぜられた。同年家の職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)、従五位上に叙せられる。仁和2年(886年)、讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年)、阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。寛平2年(890年)、任地讃岐国より帰京した。

これまでは家の格に応じた職についていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に当時有力者がいないこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。寛平3年(891年)、蔵人頭に補任。ついで式部少輔と左中弁を兼務。翌年、従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。さらに翌年には参議式部大輔に補任。左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された(延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。寛平7年(895年)には従三位権中納言に叙任。春宮権大夫を兼任。長女衍子を宇多天皇の女御とした。翌年、民部卿を兼任。寛平9年(897年)には娘を宇多天皇の子・斉世親王の妻とした。同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権(いわゆる「内覧」)を許した。正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。またこの年には宇多天皇の元で太政官を統率し、道真とも親交があった右大臣源能有(文徳天皇の皇子・宇多天皇の従兄弟)が没している。

醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになった。また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。昌泰2年(899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。翌年、三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。延喜元年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。長男高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。

道真は延喜3年(903年)、大宰府で没し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛び梅伝説」も有名である。

官歴
※日付は全て旧暦
* 貞観4年(862年)5月17日、文章生となる。
* 貞観9年(867年)
o 1月7日 文章得業生となる。
o 2月29日 正六位下に叙し、下野権少掾に任官。
* 貞観12年(870年)9月11日 正六位上に昇叙。下野権少掾如元。
* 貞観13年(871年)
o 1月29日 玄蕃助に転任。
o 2月2日 少内記に遷任。
* 貞観16年(874年)
o 1月7日 従五位下に昇叙。
o 1月15日 兵部少輔に任官。
o 2月29日 民部少輔に遷任。
* 貞観19年(877年)
o 1月15日 式部少輔に遷任。
o 改元して元慶元年10月18日 文章博士を兼任。
* 元慶3年(879年)1月7日 従五位上に昇叙。式部少輔・文章博士如元。
* 元慶7年(883年)
o 1月11日 加賀権守を兼任。
o 4月 治部権大輔を兼任。
* 仁和2年(886年)1月16日 讃岐守に遷任。
* 仁和6年(890年 讃岐守任期満了。
* 寛平3年(891年)
o 2月29日 蔵人頭に補任。
o 3月9日 式部少輔を兼任。
o 4月11日 左中弁を兼任。
* 寛平4年(892年)
o 1月7日 従四位下に昇叙。蔵人頭・式部少輔・左中弁如元。
o 12月5日 左京大夫を兼任。
* 寛平5年(893年)
o 2月16日 参議に補任。式部大輔兼任。
o 2月22日 左大弁兼任。式部大輔去る。
o 3月15日 勘解由長官を兼任。
o 4月1日 春宮亮を兼任。
* 寛平6年(894年)
o 8月21日 遣唐大使に補任。
o 9月30日 遣唐使を停止。
o 12月15日 侍従を兼任。
* 寛平7年(895年) 近江守を兼任。
o 10月26日 従三位に昇叙し、権中納言に転任。
o 11月13日 春宮権大夫を兼任。
* 寛平8年(896年)8月28日 民部卿を兼任。
* 寛平9年(897年)
o 6月19日 権大納言に転任し、右近衛大将を兼任。
o 7月13日 正三位に昇叙し、権大納言・右近衛大将如元。
o 7月26日 中宮大夫を兼任。
* 昌泰2年(899年)2月14日 右大臣に転任し、右近衛大将如元。
* 昌泰4年901年)1月25日 大宰権帥に遷任。
o 改元して延喜元年 従二位に昇叙し、右大臣・右近衛大将如元。
* 延喜3年(903年)2月25日 薨去。
* 延喜22年(923年)4月20日 右大臣に復し、贈正二位。
* 正暦4年(993年)
o 5月20日 追贈正一位左大臣。
o 10月20日 追贈太政大臣。

事績・作品
百人一首 菅家(菅原道真) このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに

著書には自らの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻(昌泰3年、900年)、大宰府での作品を集めた『菅家後集』(延喜3年、903年頃)、編著に『類聚国史』がある。日本紀略に寛平5年(893年)、宇多天皇に『新撰万葉集』2巻を奉ったとあり、現存する、宇多天皇の和歌とそれを漢詩に翻案したものを対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者と一般にはみなされるが、これを道真の編としない見方もある。

私歌集として『菅家御集』などがあるが、後世の偽作を多く含むとも指摘される。『古今和歌集』に2首が採録されるほか、「北野の御歌」として採られているものを含めると35首が勅撰和歌集に入集する。

六国史の一つ『日本三代実録』の編者でもあり、左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。左遷された事もあり編纂者から名は外されている。

祖父の始めた家塾・菅家廊下を主宰し、人材を育成した。菅家廊下は門人を一門に限らず、その出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともある。菅家廊下の名は清公が書斎に続く細殿を門人の居室としてあてたことに由来する。

和歌
* 海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ
* 東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記。後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった)

死後
菅原道真の死後、京には異変が相次ぎ、醍醐天皇の皇子が次々に病死した。さらには朝議中の清涼殿が落雷を受け、朝廷要人に多くの死傷者が出た。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。

延喜22年4月20日(913年6月2日)、従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとし、正暦4年(993年)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣(こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平の早死にで子孫が振るわなかったために、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟・忠平の子孫が藤原氏の嫡流となった事も関係しているとされる)。

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。

江戸時代には昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなり、義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。現在でもこの作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。

近世、特に戦前期では皇室の忠臣としても扱われ、紙幣に肖像が採用された。昭和3年(1928年)に講談社が発行した雑誌「キング」に、「恩賜の御衣今此に在り捧持して日毎余香を拝す」のパロディ「坊主のうんこ今此に在り捧持して日毎余香を拝す」が掲載されたところ、講談社はもとより伊香保温泉滞在中の講談社社長野間清治の元にまで暴漢らが押し寄せた。

その他
* 今や学問の神様だが当時の普通の貴族であり、妾もいれば、遊女遊びもしている。とりわけ、在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。
* 道真は胃弱だったようであり、胃の痛みを和らげるためいつもお腹の上に暖めた石(温石)を乗せていたことが文献に記されている。
* 大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという故事にちなんだ地名である。

関連項目
* 菅原氏
* 天満宮
* 天神信仰
* 菅原伝授手習鑑
* カンコー学生服
* 日本史の人物一覧
* 平安時代の人物一覧

関連書籍
* 坂本太郎「菅原道真」(人物叢書)吉川弘文館 1990年発行。ISBN 978-4-642-05181-1
* 『梅ノ木屋敷のキリン』 新風舎 2006年6月25日発行。ISBN 978-4-7974-8623-0

外部リンク
* 山陰亭
* 能面 長澤重春能面集:天神
* 太宰府天満宮:菅原道真公
* 北野天満宮
* 菅原道真左遷
 
テーマ:寺社・仏閣 - ジャンル:写真


















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