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「道前太鼓、四国の祭り、小松スケートボード大会など」はここから 西条市常心上組の西條神社に隣接する楢本神社(大町1138番地)です。楢本神社には真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等があります。

楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
楢本神社正面。常心上組のみなさんが祭り太鼓の練習をされていました。

楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
楢本神社拝殿。
「楢本神社のしるべ
一.鎮座地 西条市大町一一三八番地
一.御祭神 大国魂神外三柱
一.祭日
春 四月七日 秋 十月十五日
特攻の先陣神風特別攻撃隊敷島隊 追悼式典 十月二五日
一.由緒と沿革
西条の名の発祥地、西条荘守護神として奈良朝以前創祀されたが詳細は天正の陣の兵火にかかり社殿と共に焼失し、つまびらかならず。
一.産子うぶこと崇敬者
産子 大町郷三千五百戸
崇敬者 北海道より沖縄までの全国各地に散在す。
一.社宝
神宝貝正則作 短刀一振
神宝蝮封じ石 二個
一.境内坪数 五百余坪
境内主要建造物
一.関行男慰霊碑
大東亜戦争末期世界最初の公式の人間爆弾となりし神風特別攻撃隊敷島隊々長関行男中佐の慰霊碑を建立し昭和五十年三月二一日元航空幕僚長源田実参議院議員により除幕。
一.真鍋嘉一郎誕生の家
東大医学部に物理療法学の講座を開設し初代教授となった奇代の大英才、真鍋嘉一郎の生家を昭和53年8月に復元して記念館とす。
一.大東亜戦争特攻記念館
全国各地の同志の奉賛を得て昭和五四年十月二五日に建設を終り開館す。
一.神風特攻第一號敷島隊 五軍神祀碑建立
第1番機 海軍中佐 関行男 愛媛県西条市出身 行年二十三才
第2番機 海軍少尉 中野磐雄 福島県原町市出身 行年十九才
第3番機 海軍少尉 谷暢夫 京都府舞鶴市出身 行年二十才
第4番機 海軍飛行兵曹長 永峰肇 宮崎県宮崎市出身 行年十九才
第5番機 海軍飛行兵曹長 大黒繁男 愛媛県新居浜市出身 行年二十才
昭和五十六年十月二五日全国の有志諸賢奉賛により五軍神達が各々搭乗の零戦に抱いて敵艦に突入の二五〇キロ爆弾と同型の祀碑を戦闘隊形に建立し、十九才、二十才と云う若者達が国家の悠久繁栄を信じ大和民族の純血を守らんとせし心情を偲ぶ囚(よすが)とせり。
日本が世界に誇る神風の
祀碑竝び建つ四国西条」(楢本神社の入り口にある案内板より)

楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
移築・復元された眞鍋嘉一郎生家。
「医聖 眞鍋嘉一郎 誕生の家
この家は當地の北方約五百メートルの所に道路に面して建てられていました。
このたび百余年前の原型そのままに復元して移築したものです。
昭和五十三年八月八日」(案内板より)
「真鍋嘉一郎先生は明治十一年八月八日当町常心中南にに在りしこの家で出生された。
幼少から非凡の英才と云はれ加ゆるに不屈の精神力をもって苦学力行、松山中学一高東京帝国大学医科大学を何れも首席で卒業し直ちに同校へ奉職した。
先生は萬巻の書を読破され博覧強記と語学の天分とは先生の知識を益々該博ならしめ内科医として完成された臨床医学の知識の深さと経験の広さには世人の驚嘆の的であった。
先生は独逸及米国留学より帰朝後母校に始めて内科物理療法学の講座を設立しその主任教授となり、優秀な多くの医師の育成に努められこの新領域に大きな足跡を残された。
さらに学界だけでなく多大の輝ける業績により近代日本医学界の象徴的存在と仰がれ広く国民的尊敬を受けたのである。
先生と野口英世先生との交友の情は広く知られているところであるが、また文豪夏目漱石や首相浜口雄幸の主治医として深い新任をうけその最後の脈をとられたことも卓越せる医術と共に高潔な御人格を伺うに足るものである。
ここにわが郷土出身の医聖真鍋先生を敬慕する、石川梅蔵宮司はかつての先生の門下生今川七郎博士等と相図って生家保存会を結成し関係の方々の御協力を得て、産土大神楠本神社の神域に復元して移築し篤くこれを保存して先生の学徳を永く後世に伝えんとするものである。
昭和五十三年八月八日 西条市教育委員会」(「医聖 眞鍋嘉一郎 誕生の家」碑より)

楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
関行男慰霊之碑、五軍神祀碑
「人類六千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。「壮烈鬼神を哭かしむ」とはまさにこのことである。
この種の攻撃を行ったものは、わが日本民族を除いては見当らないし、日本民族の歴史においても、組織的な特攻攻撃は、国の命運旦夕に迫った大東亜戦争末期以外にはない。
憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意思に基いて、絶対生きて還ることない攻撃に赴いた事実は、眞にわが武士道の精髄であり、忠烈萬世に燦たるものがある。
神風特別攻撃隊第一陣は、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将(終戦時自決)の命により、昭和十九年十月二十日、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊をもって編成、その指揮官が海軍大尉関行男であった。
この攻撃隊十八機(うち半数は直掩隊)は十月二十五日出撃し、6機は敵護衛空母に命中し、三機は至近弾となって敵艦を損傷した。中でも関行男大尉は敵の護衛空母セント・ロー(一万四〇〇屯)に命中、同艦は火薬庫の誘爆を起し、艦体二つに折れて轟沈するという偉攻を奏した
関行男大尉がその教へ子に残した辞世は
教へ子は散れ山桜
かくの如くに
元航空幕僚長 参議院議員 源田實 撰文
昭和十九年十月二十五日 於比島スルアン島沖合にて戦死
昭和五十年三月 西条海軍会建之 村上秀一謹書」(関行男慰霊之碑 碑文より)
「関中佐功績顕彰歌
栗田友市 作詞
根本邦雄 作曲
一 武丈の花の精うけて 大和心の 敷島隊
吹けよ 神風 花吹雪 散りて尊き軍神
ニ 必死必中敵艦に ゝ壮烈の体当たり
鬼神もさくる特攻の 先陣切りし関中佐
三 見送る基地に手をあげて こたふ間もなく雲の上
生も死もなき心境に 取る零戦の舵かるし
四 スルアン近く 敵の艦 忽ち覆ふ弾幕に
ニッコリ笑って振る翼 我につづけと急降下
五 五つの肉弾 轟然と あげる火柱 水柱
いさおも高き忠烈は いや輝かん萬世に
六 大君の為 神風は 翼つらねて今日も征く
中佐の霊や故郷の 我等に何を求むらん」(関行男慰霊之碑 副碑より)
「軍神・関海軍中佐事歴
関行男は西条市栄町関勝太郎の長男 大正十年八月生誕す。
幼少より怜悧、果敢、何事も衆に秀づ、昭和九年三月大町小学校卆業次で県立西条中学校へ入学。
昭和十三年十二月江田島海軍兵学校(第七十期生)へ入学し帝国海軍軍人としての宿望を果すと共に、航空技術を習得して教官となり累進して海軍大尉に任官す。
大東亜戦争末期、日本国の命運旦夕に迫りし昭和十九年十月二十五日、神風特別攻撃隊敷島隊々長として出撃し、皇国悠久の大義に殉ず。
豊田聯合艦隊司令長官は、忠烈萬世に燦たる関の殊勲を全軍に布告し、二階級特進の栄冠によりその偉功を賞揚す。
西条市の旧海軍々人の有志相謀りて、遺族無き軍神関行男の慰霊碑を建立し、源田実氏除幕して、その功績を永久に顕彰す。
自今、毎年十月二十五日、軍神が敵空母「セント・ロー」に直撃して、轟沈破の日を例祭と定め、碑前に献花供饌して霊魂安眠の礼を執り行って遇す。
依りて、世界恒久平和の魁として鎮護されむことを
昭和五十年三月二十一日
楢本神社 宮司 西条市海軍会々長 石川梅蔵」(関行男慰霊之碑 副碑より)
五軍神祀碑
「昭和五十年三月二十一日遺族無き軍神関行男隊長の慰霊碑建立後、二番機中野磐雄軍神にも遺族無きを知りしため小職は隊員五軍神の命の祀碑を隊長碑の許に建立すべく計画し、昭和五十二年九月より毎年敷島隊の飛び立ちし、比島の現地マバラカットの旧飛行場跡に現地人の建立せし神風特攻隊員の巨大の慰霊碑前にて三ヶ年に亘り慰霊祭を執り行いこの敷島隊々員の命達と御遺族の方々に御同斎の御了承を得ると共に全国の篤志の方々に檄して物心両面の御協力を得、軍神等が搭乗の零戦に抱いて突入せし二五〇キロ爆弾と仝形の祀碑に要文を記して彫刻しこれを垂直に屹立せしめ後代子孫が敬仰尊崇の碑として建立し毎年命達が散華せし十月二十五日に祭儀を厳修す。
維時 昭和五十六年十月二十五日
神風特別攻撃隊敷島隊奉賛会長 石川梅蔵」(五軍神祀碑碑文より)
「大東亜戦争末期、敵の大機動部隊のレイテ湾進攻を阻止し、大和民族の純血を守らんとして神風特別第一号敷島隊は、一機一艦轟沈を目差して世界最初の公式の人間爆弾となり国家悠久の大義に殉ず
嗚呼 若き血の迸る五軍神命達よ
世界恒久平和の魁としてこれの聖所に安かに斎かれまさんことを祈る
五軍神の祀碑の下には命達の遺品を各々埋没してあります
日本が世界に誇る神風の五軍神の祀碑西条に建つ」(鎮魂碑碑文より)

楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾(右)・戦艦三笠主砲砲弾(左)
特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾
「青春の譜
戦艦大和は大東亜戦争末期残存せる大日本帝国海軍のもう艨艟を率い沖縄方面に特攻出撃の途次昭和二十年四月七日鹿児島県徳之島西方海上に於て敵の潜水艦と航空軍グラマンと反復攻撃により世界最大を誇る不沈戦艦も乗員三千余名と共に運命を共にせり。
この台座に屹立の砲弾は大和の主砲々弾にして呉市の神津幸直氏から軍神関中佐の霊前に献備されたが此のたび源田実先生始め全国の方々の御尽力により境内に特攻記念館落成を記念し本弾を大東亜戦争特攻戦没慰霊弾塔とし弾中にこの方々の霊魂を安鎮して毎年八月十五日終戦記念日を祭日と定めて慰霊祭を斎行することとなれり。
本企画は西条海軍会一同の総意に基きこれを機として昭和四十八年五月二十七日本会発足以来会員諸君が諸事業に協賛せしを記念し本碑落成に当り軍籍に在りし当時の青春の思い出に勤務の尤も印象に残る艦艇隊名を刻み国家悠久の大義に殉じられし戦没将兵を慰霊する行事が後世子孫に伝承される事を祈念するものである。
昭和五十五年八月十五日
西条海軍会 楢本神社宮司 西条海軍会長 石川梅蔵」(特攻将兵慰霊之塔碑文より)
「この砲弾は大東亜戦争の聯合艦隊旗艦戦艦大和の主砲用として使用されたものである。当時においては世界にその比を見ない大きなもので、おそらく将来もかゝる大きな砲弾は生れないであろう。
この砲弾を発射し得る大砲、遠距離に飛ばす火薬、これを命中させる指揮装置、砲弾自体に装甲版を貫く形状と材質がある、従って旧海軍が到達した用兵技術の極地がこの一発の砲弾に示されている。
この砲弾は国家の至宝ともいうべきもので呉地方総監香取頴男海将の肝煎りにより中国火薬(株)社長神津幸直から往時の日本海軍の偉容をしのびつゝ日本国護持のため悠久の大義に殉じた軍神関中佐の偉功を顕彰し、その霊を慰めるため奉献されたものである。
砲弾及び銘板寄贈 呉市中央一丁目 神津幸直
(海軍兵学校第六十期 海軍少佐)
台座寄贈 西条市朔日市 越智忠一」(特攻将兵慰霊之塔銘板より)
戦艦三笠主砲砲弾
「この砲弾は明治三十八年五月二十七日日本海々戦において、聯合艦隊旗艦として東郷平八郎海軍大将が坐乗され、ロシアのバルチック艦隊を撃滅して世界戦史に赫々たる偉功を奏した戦艦三笠に装備されたものである
戦艦三笠は大正十五年老朽化により廃艦となり、この搭載物件処理当時舞鶴海軍々需部長の当市出身鈴木秀次海軍大佐の配慮により、帝国在郷軍人会新居郡聯合分会石川梅蔵海軍部長の要請に応えて佛下げられ市内禎瑞嘉母神社に奉献されたものを、このたび同神社氏子中より楢本神社境内へ搬入されたものである
台座寄贈 西条市朔日市 越智忠一
銘板寄贈 呉市中央一丁目 神津幸直」(碑文より)

楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
常心上組のみなさんが祭り太鼓の練習をされていました。

楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
祭り太鼓の練習にきていたお子さん。

楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
楢本神社・西條神社の南にある忠霊塔。この塔の横には「三代目高砂浦五郎碑 陸軍大将福田雅太郎書」の碑もあります。
■西條神社(お旅所)・楢本神社・愛媛県立西条農業高等学校の所在地地図・アクセス
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●豆知識●●真鍋嘉一郎フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E9%8D%8B%E5%98%89%E4%B8%80%E9%83%8E
真鍋 嘉一郎(まなべ かいちろう、1878年(明治11年)8月8日 - 1941年(昭和16年)12月29日)は明治後期から昭和初期の医学者、日本における物理療法(理学療法)、レントゲン学、温泉療法の先駆者。従弟に難波江通泰がいる。
人物・来歴
愛媛県新居郡大町村(現西条市大町)に生まれる。
西条高等小学校、愛媛県尋常中学校(現松山東高)に学ぶ。中学の教員に夏目漱石、同級生に松根東洋城がいた。1896年(明治29年)中学卒業、第一高等学校(現東京大学教養学部)進学。5歳で父を亡くし家計は苦しかったが、小学校より大学卒業まで一貫して首席であったといわれ、特待生として勉学を続けることができた。
1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部)に入学、青山胤通教授のもとで内科学を専攻、ベルツらの薫陶を受ける。1904年(明治37年)卒業。この頃福島県・飯坂温泉、兵庫県・城崎温泉の放射能を測定し、飯坂温泉にて日本ではじめてラジウムの存在を確認、「飯坂」の名は世界的に知られることとなった。
1907年(明治40年)、東京帝大医科大学助手。
1908年(明治41年)、東京帝大医科大学院に入学。
1911年(明治44年)から3年間ドイツに留学して物理療法(理学療法)を研究。野口英世の知遇を得る。
1914年(大正3年)、東京帝大医科大学講師。
1915年(大正4年)、青山が北里柴三郎から奪ったといわれる伝染病研究所の技師となる。
1918年(大正7年)、新設の物理療法研究所主任となり、内科治療にエックス線、ラジウム鉱泉、電気などを導入。「レントゲン」の呼称を初めて使用し定着させた。
1926年(大正15年)、東大・青山内科を稲田龍吉が継ぎ、真鍋は内科物理療法学講座(物療内科)を開いて、学生時代長与又郎、島薗順次郎をしのぐ秀才といわれながら「不遇をもって鳴る大家」だった十年講師がついに教授となる。
東大教授でありながら学位より臨床に重きを置く真鍋のもとを、多くの患者が診察に訪れた。また、中学で漱石に学んだ21年後、長与らと漱石の臨終に立ち会ったほか、大正天皇、浜口雄幸など数々の著名人の主治医も務めた。物療内科開設は幅広い人脈と有力な資金源とに支えられたといっても過言でない。
日本内科学会会頭、日本医学放射線学会初代会長を歴任。
1941年(昭和16年)、ガンで死去。享年64。
エピソード
* 中学時代から秀才の呼び声高かった真鍋は、生徒の先頭に立って教師に意地の悪い質問をぶつけるため、教師の側も「そんな重箱の隅をほじくるようなことをしていては書物は読めない」、「その質問は後回しだ」などともてあますことが多かった。しかし級長をしていた5年生のとき、新任の英語教師・夏目金之助(漱石)に、十分に下準備をしてきた真鍋が「先生の訳は間違っています」と二つの理由を挙げて得々と指摘したところ、漱石はこともなげに「君のいう一つは辞書の誤りであり、一つは著者の誤りだ。二つとも本を訂正しておくように」といって講義を進めた。さすがの真鍋も立往生し返す言葉がなかったという。また真鍋は当時を振り返り、含蓄のある漱石の授業ぶりに強く感化されたと述べている。そのほか、漱石の布団にバッタを入れた張本人という話もある。ちなみに中学での漱石の給与は校長よりも高かった。
* 直情径行の頑固教授として知られ、「わしの論文を審査できる教授は東大にはおらん」と博士論文を提出せず、東大教授でありながら博士号を持たない最初の例となった。
* 塩谷信男が東大物療内科の医局にいたころ、患者を手かざしで治療したことに激怒、塩谷を東大から追い出した。後に臨床医としての塩谷の手腕を評価している。
* 1930年(昭和5年)11月14日、東京駅頭にて浜口雄幸首相が銃撃され、真鍋が主治医として治療にあたった。容態は「おならが出るか否かが生死の分かれ目」。狙撃から3日後の未明、泊まり込んで浜口を見守っていた真鍋と家族の前で首相が待望の一発、病室では「万歳! 万歳!おなら万歳!」と歓喜の声が挙がり、新聞各紙も大々的に報じた。これを祝して真鍋は「秋の夜や 天下に響く 屁一つ」と詠んでいる。
* 星製薬社長・星一(小説家・星新一の父)を放逐する策動のため、星が精神病であると診断するよう依頼されたが、真鍋は「星はそんな男ではない」と足下に拒絶した。
* 友人の寺田寅彦は、最期まで真鍋の診察を受けようとしなかったという。理由は不明。
* 晩年、ガンで入院中、妹と弟子に毎日浅草寺に参らせ、勤行を聴聞させた。2人が参拝する2時間のあいだは不思議と痛みを感じることがなかったと真鍋本人が述白している。
関連
* 理学療法
* 温泉療法
* レントゲン
●関行男フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A1%8C%E7%94%B7
関 行男(せき ゆきお、1921年8月29日 - 1944年10月25日)は、第二次世界大戦中における日本海軍航空隊の艦上爆撃機パイロット。愛媛県西条市出身。最終階級は海軍大尉(死後海軍中佐に2階級特進)。海軍兵学校70期。
関行男
1921年8月29日 - 1944年10月25日
関 行男
生誕地 愛媛県西条市
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1941年 - 1944年
最終階級 海軍中佐
戦闘 太平洋戦争
経歴
レイテ沖海戦において、神風特別攻撃隊・敷島隊隊長として指揮し、自らもアメリカ艦船に突入し、戦死した。死後は「軍神」として畏敬の対象とされた。
旧制西条中学校(現・愛媛県立西条高等学校)、海軍兵学校卒業。なお特攻隊の戦死者第一号は大和隊隊長・久納好孚中尉(法政大学出身)である。ただ戦果[1]は不明であるのと、海兵出身者を特攻第一号にとの上層部の意向で、関に特攻第一号のお鉢が回ってきた。
第二次世界大戦中の1944年10月、フィリピン周辺海域で行われていたレイテ沖海戦において、日本軍は苦戦していた。直前に生起した台湾沖航空戦において大打撃を受けた在フィリピン日本海軍航空部隊は行動可能な航空機が零戦僅か30機[2]という事態に陥るに至り、突入してくる日本海軍水上部隊の上空掩護は不可能になっていた。着任したばかりの第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は、特別攻撃隊の編成を発令。特別攻撃隊は、爆弾を積んだ航空機により体当たり攻撃を行うものであり、生還は不可能であった。
そのレイテ沖海戦で編成された最初の特攻隊が、関行男大尉を隊長とする「敷島隊」と、同時に出撃した「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」、爆装した零戦合計24機である。各隊の名称は本居宣長の古歌より命名された。特攻第1号といわれる関大尉は元々艦爆のパイロットであり零戦は乗りなれた機体ではなかった。しかし戦局が押し迫り艦爆の活躍の場がなくなったため戦闘201航空隊の分隊長として赴任[3]してきたばかりだった。当初、菅野直大尉が候補に挙がっていたが、内地へ一時帰還中[4]だった為に関大尉に決定したと言われている。
深夜、大西中将や飛行長中島少佐たちの前で突然隊長指名を受けた関大尉は、頭を抱えて考え込んだという。彼は結婚したばかりで妻も年老いた母もいた。しばらくの沈黙の後、「承知しました」と答え、自室に遺書を書きに戻っていったという[5]。
この後、関は以下のような言葉を遺している。
僕には体当たりしなくても敵空母に50番[6]を命中させる自信がある。日本もおしまいだよ、僕のような優秀なパイロットを殺すなんてね。僕は天皇陛下のためとか日本帝国のためとかで行くんじゃないよ。KA[7]を護るために行くんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう
― 関行男, マバラカット基地にて海軍報道班員のインタビューに答えて
彼らは、1944年10月21日の初出撃では天候不良や会敵不能などから帰還せねばならなくなり、その後も2度諸障害により基地に帰還している。関大尉は、帰還するたびに自らの指揮の不首尾を涙ながらに悔やんだ。司令部でも一部の幹部は一向に戦果を挙げないで帰還してくる関大尉に対し次第に面罵するようになり、遂には4度目の出撃の際には「もう還ってくるな」と言ったとさえ言われる。そして25日の4度目の出撃で、敷島隊はついに作戦に成功した。敷島隊は1機(一説には2機)が、護衛空母セント・ローに突入、これを撃沈。これは一般に関大尉機と言われる。
しかし、関大尉機は突入に失敗して海中に墜落(あるいはカリニン・ベイに突入したものの、爆弾が不発もしくは舷外に落下して大きな損傷を与えられなかった、とも)し、空母に突入したのは列機であるとの説もある。戦果を華々しく発表するため、大本営発表では突入したのは隊長機である関大尉機であるとした、という説である。
この敷島隊による特攻でカサブランカ級護衛空母(セント・ロー)の撃沈をはじめ、注目しうる戦果を挙げたため、特攻作戦はその後も遂行されることとなった。[8]
関連項目
* 菅野直
* 航空兵#大日本帝國軍の航空將兵
脚注
1. ^ 記録によると10月21日(特攻隊出撃初日)、豪重巡オーストラリアが体当たりで損傷を受けたとあり、事実なら彼が神風特攻第1号という事になる。但し、出撃時刻と損傷時刻がかけ離れるなど疑問視する意見もある。
2. ^ これらの零戦は、前線を退いた型の古い疲弊機体ばかりであった。
3. ^ この異動にも謎が多く事前に決められていた等の諸説がある。
4. ^ 菅野大尉の能力を買っていた為の意図的な措置とも言われている。
5. ^ 実はこれは戦意昂揚の為の「神話」で事実とは異なるというのが定説となっており、実際には即答を避けて一晩悩んだ末、翌日になってようやく応諾した、と副司令の玉井浅一が戦後に明かした話の方が信憑性は高いという。
6. ^ 500キロ爆弾のこと。
7. ^ 海軍の隠語で妻のこと。
8. ^ 護衛空母とはいえ空母を撃沈するという、日本軍としては航空作戦での大きい戦果であったが、これを日本軍は正規空母撃沈と誤認していた上、アメリカ軍にとっては微々たる損害に過ぎない。
関連項目
* 大日本帝国海軍軍人一覧
* 殉職
外部リンク
特攻第一号の神話:神風特別攻撃隊のフィリピン戦