西条市常心上組の西條神社に隣接する楢本神社(大町1138番地)です。楢本神社には真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等があります。
●西条異景に掲載している
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楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
楢本神社正面。常心上組のみなさんが祭り太鼓の練習をされていました。
楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
楢本神社拝殿。
「楢本神社のしるべ
一.鎮座地 西条市大町一一三八番地
一.御祭神 大国魂神外三柱
一.祭日
春 四月七日 秋 十月十五日
特攻の先陣神風特別攻撃隊敷島隊 追悼式典 十月二五日
一.由緒と沿革
西条の名の発祥地、西条荘守護神として奈良朝以前創祀されたが詳細は天正の陣の兵火にかかり社殿と共に焼失し、つまびらかならず。
一.産子うぶこと崇敬者
産子 大町郷三千五百戸
崇敬者 北海道より沖縄までの全国各地に散在す。
一.社宝
神宝貝正則作 短刀一振
神宝蝮封じ石 二個
一.境内坪数 五百余坪
境内主要建造物
一.関行男慰霊碑
大東亜戦争末期世界最初の公式の人間爆弾となりし神風特別攻撃隊敷島隊々長関行男中佐の慰霊碑を建立し昭和五十年三月二一日元航空幕僚長源田実参議院議員により除幕。
一.真鍋嘉一郎誕生の家
東大医学部に物理療法学の講座を開設し初代教授となった奇代の大英才、真鍋嘉一郎の生家を昭和53年8月に復元して記念館とす。
一.大東亜戦争特攻記念館
全国各地の同志の奉賛を得て昭和五四年十月二五日に建設を終り開館す。
一.神風特攻第一號敷島隊 五軍神祀碑建立
第1番機 海軍中佐 関行男 愛媛県西条市出身 行年二十三才
第2番機 海軍少尉 中野磐雄 福島県原町市出身 行年十九才
第3番機 海軍少尉 谷暢夫 京都府舞鶴市出身 行年二十才
第4番機 海軍飛行兵曹長 永峰肇 宮崎県宮崎市出身 行年十九才
第5番機 海軍飛行兵曹長 大黒繁男 愛媛県新居浜市出身 行年二十才
昭和五十六年十月二五日全国の有志諸賢奉賛により五軍神達が各々搭乗の零戦に抱いて敵艦に突入の二五〇キロ爆弾と同型の祀碑を戦闘隊形に建立し、十九才、二十才と云う若者達が国家の悠久繁栄を信じ大和民族の純血を守らんとせし心情を偲ぶ囚(よすが)とせり。
日本が世界に誇る神風の
祀碑竝び建つ四国西条」(楢本神社の入り口にある案内板より)
楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
移築・復元された眞鍋嘉一郎生家。
「医聖 眞鍋嘉一郎 誕生の家
この家は當地の北方約五百メートルの所に道路に面して建てられていました。
このたび百余年前の原型そのままに復元して移築したものです。
昭和五十三年八月八日」(案内板より)
楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
関行男慰霊之碑、五軍神祀碑
「人類六千年の歴史の中で、神風特別攻撃隊ほど人の心をうつものはない。「壮烈鬼神を哭かしむ」とはまさにこのことである。
この種の攻撃を行ったものは、わが日本民族を除いては見当らないし、日本民族の歴史においても、組織的な特攻攻撃は、国の命運旦夕に迫った大東亜戦争末期以外にはない。
憂国の至情に燃える若い数千人の青年が自らの意思に基いて、絶対生きて還ることない攻撃に赴いた事実は、眞にわが武士道の精髄であり、忠烈萬世に燦たるものがある。
神風特別攻撃隊第一陣は、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将(終戦時自決)の命により、昭和十九年十月二十日、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊をもって編成、その指揮官が海軍大尉関行男であった。
この攻撃隊十八機(うち半数は直掩隊)は十月二十五日出撃し、6機は敵護衛空母に命中し、三機は至近弾となって敵艦を損傷した。中でも関行男大尉は敵の護衛空母セント・ロー(一万四〇〇屯)に命中、同艦は火薬庫の誘爆を起し、艦体二つに折れて轟沈するという偉攻を奏した
関行男大尉がその教へ子に残した辞世は
教へ子は散れ山桜
かくの如くに
元航空幕僚長 参議院議員 源田實 撰文
昭和十九年十月二十五日 於比島スルアン島沖合にて戦死
昭和五十年三月 西条海軍会建之 村上秀一謹書」(関行男慰霊之碑 碑文より)
「関中佐功績顕彰歌
栗田友市 作詞
根本邦雄 作曲
一 武丈の花の精うけて 大和心の 敷島隊
吹けよ 神風 花吹雪 散りて尊き軍神
ニ 必死必中敵艦に ゝ壮烈の体当たり
鬼神もさくる特攻の 先陣切りし関中佐
三 見送る基地に手をあげて こたふ間もなく雲の上
生も死もなき心境に 取る零戦の舵かるし
四 スルアン近く 敵の艦 忽ち覆ふ弾幕に
ニッコリ笑って振る翼 我につづけと急降下
五 五つの肉弾 轟然と あげる火柱 水柱
いさおも高き忠烈は いや輝かん萬世に
六 大君の為 神風は 翼つらねて今日も征く
中佐の霊や故郷の 我等に何を求むらん」(関行男慰霊之碑 副碑より)
「軍神・関海軍中佐事歴
関行男は西条市栄町関勝太郎の長男 大正十年八月生誕す。
幼少より怜悧、果敢、何事も衆に秀づ、昭和九年三月大町小学校卆業次で県立西条中学校へ入学。
昭和十三年十二月江田島海軍兵学校(第七十期生)へ入学し帝国海軍軍人としての宿望を果すと共に、航空技術を習得して教官となり累進して海軍大尉に任官す。
大東亜戦争末期、日本国の命運旦夕に迫りし昭和十九年十月二十五日、神風特別攻撃隊敷島隊々長として出撃し、皇国悠久の大義に殉ず。
豊田聯合艦隊司令長官は、忠烈萬世に燦たる関の殊勲を全軍に布告し、二階級特進の栄冠によりその偉功を賞揚す。
西条市の旧海軍々人の有志相謀りて、遺族無き軍神関行男の慰霊碑を建立し、源田実氏除幕して、その功績を永久に顕彰す。
自今、毎年十月二十五日、軍神が敵空母「セント・ロー」に直撃して、轟沈破の日を例祭と定め、碑前に献花供饌して霊魂安眠の礼を執り行って遇す。
依りて、世界恒久平和の魁として鎮護されむことを
昭和五十年三月二十一日
楢本神社 宮司 西条市海軍会々長 石川梅蔵」(関行男慰霊之碑 副碑より)
五軍神祀碑
「昭和五十年三月二十一日遺族無き軍神関行男隊長の慰霊碑建立後、二番機中野磐雄軍神にも遺族無きを知りしため小職は隊員五軍神の命の祀碑を隊長碑の許に建立すべく計画し、昭和五十二年九月より毎年敷島隊の飛び立ちし、比島の現地マバラカットの旧飛行場跡に現地人の建立せし神風特攻隊員の巨大の慰霊碑前にて三ヶ年に亘り慰霊祭を執り行いこの敷島隊々員の命達と御遺族の方々に御同斎の御了承を得ると共に全国の篤志の方々に檄して物心両面の御協力を得、軍神等が搭乗の零戦に抱いて突入せし二五〇キロ爆弾と仝形の祀碑に要文を記して彫刻しこれを垂直に屹立せしめ後代子孫が敬仰尊崇の碑として建立し毎年命達が散華せし十月二十五日に祭儀を厳修す。
維時 昭和五十六年十月二十五日
神風特別攻撃隊敷島隊奉賛会長 石川梅蔵」(五軍神祀碑碑文より)
「大東亜戦争末期、敵の大機動部隊のレイテ湾進攻を阻止し、大和民族の純血を守らんとして神風特別第一号敷島隊は、一機一艦轟沈を目差して世界最初の公式の人間爆弾となり国家悠久の大義に殉ず
嗚呼 若き血の迸る五軍神命達よ
世界恒久平和の魁としてこれの聖所に安かに斎かれまさんことを祈る
五軍神の祀碑の下には命達の遺品を各々埋没してあります
日本が世界に誇る神風の五軍神の祀碑西条に建つ」(鎮魂碑碑文より)
楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾(右)・戦艦三笠主砲砲弾(左)
特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾
「青春の譜
戦艦大和は大東亜戦争末期残存せる大日本帝国海軍のもう艨艟を率い沖縄方面に特攻出撃の途次昭和二十年四月七日鹿児島県徳之島西方海上に於て敵の潜水艦と航空軍グラマンと反復攻撃により世界最大を誇る不沈戦艦も乗員三千余名と共に運命を共にせり。
この台座に屹立の砲弾は大和の主砲々弾にして呉市の神津幸直氏から軍神関中佐の霊前に献備されたが此のたび源田実先生始め全国の方々の御尽力により境内に特攻記念館落成を記念し本弾を大東亜戦争特攻戦没慰霊弾塔とし弾中にこの方々の霊魂を安鎮して毎年八月十五日終戦記念日を祭日と定めて慰霊祭を斎行することとなれり。
本企画は西条海軍会一同の総意に基きこれを機として昭和四十八年五月二十七日本会発足以来会員諸君が諸事業に協賛せしを記念し本碑落成に当り軍籍に在りし当時の青春の思い出に勤務の尤も印象に残る艦艇隊名を刻み国家悠久の大義に殉じられし戦没将兵を慰霊する行事が後世子孫に伝承される事を祈念するものである。
昭和五十五年八月十五日
西条海軍会 楢本神社宮司 西条海軍会長 石川梅蔵」(特攻将兵慰霊之塔碑文より)
「この砲弾は大東亜戦争の聯合艦隊旗艦戦艦大和の主砲用として使用されたものである。当時においては世界にその比を見ない大きなもので、おそらく将来もかゝる大きな砲弾は生れないであろう。
この砲弾を発射し得る大砲、遠距離に飛ばす火薬、これを命中させる指揮装置、砲弾自体に装甲版を貫く形状と材質がある、従って旧海軍が到達した用兵技術の極地がこの一発の砲弾に示されている。
この砲弾は国家の至宝ともいうべきもので呉地方総監香取頴男海将の肝煎りにより中国火薬(株)社長神津幸直から往時の日本海軍の偉容をしのびつゝ日本国護持のため悠久の大義に殉じた軍神関中佐の偉功を顕彰し、その霊を慰めるため奉献されたものである。
砲弾及び銘板寄贈 呉市中央一丁目 神津幸直
(海軍兵学校第六十期 海軍少佐)
台座寄贈 西条市朔日市 越智忠一」(特攻将兵慰霊之塔銘板より)
戦艦三笠主砲砲弾
「この砲弾は明治三十八年五月二十七日日本海々戦において、聯合艦隊旗艦として東郷平八郎海軍大将が坐乗され、ロシアのバルチック艦隊を撃滅して世界戦史に赫々たる偉功を奏した戦艦三笠に装備されたものである
戦艦三笠は大正十五年老朽化により廃艦となり、この搭載物件処理当時舞鶴海軍々需部長の当市出身鈴木秀次海軍大佐の配慮により、帝国在郷軍人会新居郡聯合分会石川梅蔵海軍部長の要請に応えて佛下げられ市内禎瑞嘉母神社に奉献されたものを、このたび同神社氏子中より楢本神社境内へ搬入されたものである
台座寄贈 西条市朔日市 越智忠一
銘板寄贈 呉市中央一丁目 神津幸直」(碑文より)
楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
常心上組のみなさんが祭り太鼓の練習をされていました。
楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
祭り太鼓の練習にきていたお子さん。
楢本神社と真鍋嘉一郎誕生の家・関行男慰霊碑・大東亜戦争特攻記念館・大東亜戦争特攻将兵慰霊之塔の戦艦大和主砲砲弾・戦艦三笠主砲砲弾等 西条市常心上組 2008.09.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
楢本神社・西條神社の南にある忠霊塔。この塔の横には「三代目高砂浦五郎碑 陸軍大将福田雅太郎書」の碑もあります。
■西條神社(お旅所)・楢本神社・愛媛県立西条農業高等学校の所在地地図・アクセス
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