
■2008年撮影のお祭り写真を現在アップ中です(^^♪
■現地で「掲載します」とお約束した皆様、あと少しお待ちくださいね。
■今後、掲載予定の秋祭りなど
(23日)伊予三島秋祭り三島地区夜太鼓統一運行 駅前通り〜中央本通り〜三島神社
(22日)伊予三島秋祭り三島地区統一運行(伊予銀行前)、寒川・豊岡地区統一寄せ
(19日)新居浜太鼓祭り船御幸、綾延神社殿中奴
(17日)新居浜太鼓祭り上部統一かき比べ
(16日)伊曽乃神社お旅所の続き、西条駅前等での後夜祭
(15日)みこし(御輿)のねり比べ、伊曽乃川人会、七泰会、植村会
(15日)石岡神社お旅所内外・宮入り、丹原町統一かきくらべ
(14日)石岡神社本殿祭、土居太鼓まつりかき比べ等
(13日)高尾神社秋祭り、氷見新町屋台改修記念式
(12日)加茂神社例祭(福武祭)、秋季弁天祭り、神拝荒神祭、橘新宮神社
(12日)御所明神まつり、磐根神社毛槍投げ奴、嘉母神社祭礼宮出し・難波
(11日)東予秋祭り統一運行、パルティ・フジ東予店前かきくらべ
(11日)保内八幡神社秋季大祭、三津屋子供太鼓台・だんじり
などを順次アップします ■掲載完了の秋祭りなど ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 御旅所」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 御殿前」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 川入り・宮入り」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 宮出し」などはここから ●
「2008 新居浜太鼓まつり 大江浜かきくらべ、一宮神社かき比べ
西原vs新須賀、阿島vs松神子太鼓台、川東西部かき比べ(国領川河川敷公園)
又野・萩生西太鼓台新調、江口太鼓台、にいはま夏祭り、東田太鼓台新営」はここから ●
「2008 土居太鼓祭り 蕪崎太鼓台新調お披露目」などはここから ●
「2008 飯積神社祭礼 宮出し、渦井川(うずゐがわ)川原・船屋グラウンドかきくらべ、
飯岡本郷太鼓台新調、飯岡八幡太鼓台新営」などはここから ●
「2008 石岡神社例大祭 石岡神社宵祭り(前夜祭)、楢木(楢の木)屋台改修
桜木神社祭礼、高尾神社例大祭(春祭り)」などはここから ●
「2008 禎瑞嘉母神社祭礼 禎瑞高丸・難波・上組子供太鼓台」などはここから ●
「2008 東予秋祭り 壬生川宵祭り(前夜祭)、明理川・本町だんじり」などはここから ●
「2008 小松秋祭り 三嶋神社祭礼宮入り(階段上げ)、石土神社浦安神楽」などはここから ●
「2008 丹原秋祭り 中川ふるさと祭り」などはここから ●
「2008 御所神社祭り・下喜多川御輿十周年、日明格納庫
中西御輿改修、四国の祭りなど」はここから ●
「2008 第27回伊勢音頭フェスティバル」はここから 2008年(平成20年)10月16日の御旅所(お旅所)での中野日明・中野藪之内だんじり(屋台)です。
御旅所では全屋台を撮影しましたが、撮影済みのCF(コンパクトフラッシュ)を1枚紛失し、大町地区の一部のデータをなくしてしまったようです(涙)。他の屋台の差し上げ(さしあげ)中心の写真を、順次アップしていきますね。
伊曽乃神社祭礼関係の写真は今後も、(16日)伊曽乃神社お旅所の続き、御殿前の続き、西条駅前等での後夜祭 (15日)みこし(御輿)のねり比べ、伊曽乃川人会、七泰会、植村会 (12日)加茂神社例祭(福武祭)、秋季弁天祭り、神拝荒神祭、橘新宮神社、御所明神まつりなどをアップしていく予定です。

御旅所(お旅所)前での中野日明だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その3 神戸地区 中野日明(ひあけ)・中野藪之内(藪の内、藪ノ内)だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
■四番 中野日明だんじり(屋台) 神戸地区
製作年 昭和3年(1928)北町新調。42年洲之内より購入。経路は北町⇒洲之内⇒日明。
彫刻 近藤泰山
大工 石川甚助
素木・三階で、彫物図柄は「川中島の合戦 等」。水引幕は赤地に源氏車の金色の刺繍。
*屋台の情報については、「山車・だんじり悉皆調査」さまより、引用させていただきました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/ehime-touyo.htm

御旅所(お旅所)前での中野日明だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その3 神戸地区 中野日明(ひあけ)・中野藪之内(藪の内、藪ノ内)だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

御旅所(お旅所)前での中野日明だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その3 神戸地区 中野日明(ひあけ)・中野藪之内(藪の内、藪ノ内)だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

御旅所(お旅所)前での中野日明だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その3 神戸地区 中野日明(ひあけ)・中野藪之内(藪の内、藪ノ内)だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

御旅所(お旅所)前での中野藪之内だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その3 神戸地区 中野日明(ひあけ)・中野藪之内(藪の内、藪ノ内)だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
■五番 中野藪之内だんじり(屋台) 神戸地区
製作年 昭和57年(1982)
彫刻 土居工雪
大工 伊藤一直
素木・三階、彫物図柄は「賤ヶ岳の七本槍」。水引幕は赤地に源氏車の紋が二つ金色の刺繍。
*屋台の情報については、「山車・だんじり悉皆調査」さまより、引用させていただきました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/ehime-touyo.htm

御旅所(お旅所)前での中野藪之内だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その3 神戸地区 中野日明(ひあけ)・中野藪之内(藪の内、藪ノ内)だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

御旅所(お旅所)前での中野藪之内だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その3 神戸地区 中野日明(ひあけ)・中野藪之内(藪の内、藪ノ内)だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

御旅所(お旅所)前での中野藪之内だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その3 神戸地区 中野日明(ひあけ)・中野藪之内(藪の内、藪ノ内)だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
■私の撮影した2008年(平成20年)の伊曽乃神社祭礼御旅所の写真は、右側のリンクの「2008 伊曽乃神社祭礼御旅所」をクリックして順次ご覧ください。

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●豆知識●●川中島の戦い中野日明だんじり(屋台)の彫物図柄「川中島の合戦」についての豆知識です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81
%AE%E6%88%A6%E3%81%84
川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。最大の激戦となった第4次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。
概要
川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。
1. 第一次合戦:天文22年(1553年)
2. 第二次合戦:天文24年(1555年)
3. 第三次合戦:弘治3年(1557年)
4. 第四次合戦:永禄4年(1561年)
5. 第五次合戦:永禄7年(1564年)
戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略と越後進出を目的とした。結果として両者共に目的を果たせなかったが、武田氏の支配地は着実に北上している。
なお、上記の「五回説」が現在では一般的であるが、異説も存在する。特に明治期には田中義成が軍記物の信憑性を否定し、上記第二次と第四次のみを確実とする「二回説」を提唱した。1929年には渡辺世祐がはじめて五戦説を提唱し、戦後には小林計一郎以来この五回説が支持されている。二回説は直接両軍が交戦した二回までは記録が残っているが、他の戦いは交戦を避けたりしている場合が多いため、1932年の北村建信ら「二回説」を主張する研究者の理屈にも一定の説得力があるといえるが、一般的とは言いがたい。
背景
戦国時代の甲信越地方拡大
武田信虎時代から信濃国佐久郡に侵攻を始めていた甲斐の武田氏は、武田晴信(武田信玄)の時代の天文11年(1542年)に、ついに諏訪頼重を攻めて諏訪氏を滅ぼす事に成功する。その後も信濃国への出兵を繰り返し、徐々に領地を広げて行った。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。
武田氏は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を次々と攻略、天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で大敗させ、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。天文17年(1548年)の上田原の戦いでは村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を撃破して、天文19年(1550年)には小笠原長時を追い払い、中信地方を制圧する。
同年、村上義清の支城の戸石城を攻めるが、一方的とも言える大敗を喫する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、砥石城を落とすことに成功。また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。
対武田では村上氏と協力関係にあった善光寺平以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあり、村上氏の勢力が衰退し代わって武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようなった。特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であり、越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。更に当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。
川中島
千曲川と犀川の合流地点
信濃国北部、千曲川のほとりには善光寺平と呼ばれる盆地が広がる。この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。善光寺平の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と呼ぶ。当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後を上回った。鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。古来から交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては善光寺平以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば中信地方(現在の松本平)に至る要地であった。
この地域には栗田氏や市川氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。
第一次合戦
川中島の戦い拡大
川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは八幡の戦いとも言う。長尾景虎が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信と戦った。
天文22年(1553年)4月、晴信は北信濃へ出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、景虎に支援を願った。5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田軍は再び北信濃に侵攻し、村上方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。
9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、青柳城を攻めた。武田軍は、荒砥城に夜襲をしかけ、長尾軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。
この戦いは川中島を含む善光寺平より南の千曲川沿いで行われており、善光寺平の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、善光寺平進出は阻まれたものの、小県はもちろん村上氏の本領埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。
景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めている。
なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面、武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。
第二次合戦
川中島の戦いの第二次合戦は、天文24年(1555年)に行われ、犀川の戦いとも言う。武田晴信と長尾景虎は、200日余におよぶ長期にわたり対陣した。
天文23年(1554年)、晴信は後北条氏、今川氏とそれぞれ同盟を結んで背後を固めた(甲相駿三国同盟)。その上で、長尾氏の有力家臣北条高広に反乱を起こさせた。景虎は北条高広を降すが、背後にいる晴信との対立は深まった。
善光寺
天文24年・弘治元年(1555年)、信濃国善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返り、善光寺平の南半分が武田氏の勢力下の置かれ、善光寺以北の長尾方諸豪族への圧力が高まった。4月、景虎は善光寺奪回のため善光寺平北部に出陣した。栗田鶴寿と武田氏の援軍兵3000は、栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城、景虎は旭山城を封じ込めるため、そして前進拠点として葛山城(長野県長野市)を築いた。
晴信も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる。兵站線(前線と根拠地の間の道)の長い武田軍は、兵糧の調達に苦しんだとされる。長尾軍の中でも動揺が起こっていたらしく、景虎は諸将に忠誠を確認する誓紙を求めている。
閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した。和睦の条件として、晴信は須田氏、井上氏、島津氏など北信濃国人衆の旧領復帰を認め、旭山城を破却することになった。これにより長尾氏の勢力は、善光寺平の北半分(犀川以北)を確保したことになる。
その後、晴信は木曽郡の木曾義康・義昌父子を降伏させ、南信濃平定を完成させた。
第三次合戦
川中島の戦いの第三次合戦は、弘治3年(1557年)に行われ、上野原の戦いとも言う。武田晴信の北信濃への著しい勢力伸張に反撃すべく、長尾景虎は出陣するが、晴信は決戦を避け、決着は付かなかった。
弘治2年(1556年)、越後国では景虎が出家隠遁を図る事件が起きている。家臣団が景虎への忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっている。長尾氏が内輪もめを起こしている間に、晴信は北信濃国人衆への調略を進め、同時に真田幸隆に善光寺平東部の尼巌城(長野県長野市松代)を攻めさせ、8月にこれを陥れた。更に景虎と不和になった大熊朝秀を調略し、反乱を起こさせて越後侵攻を図った。結局、大熊朝秀の反乱は失敗し、甲斐国へ逃れている。
弘治3年(1557年)正月、景虎は更科八幡宮(武水別神社、長野県千曲市)に願文を捧げて、武田氏討滅を祈願している。2月、晴信は長尾方の前進拠点であった葛山城を落とし、高梨政頼の居城飯山城に迫った。積雪のため信越国境が封鎖されている時期であり、長尾方諸将の動揺を誘った。
4月18日、ようやく景虎は信濃へ出陣。4月から6月にかけて北信濃の武田方の諸城を落とし、武田領深く侵攻し善光寺平奪回を図るが武田軍は決戦を避け、景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げた。7月、景虎は尼巌城を攻めるが失敗。一方、武田軍の支隊が安曇郡の信越国境近くの小谷城(おたりじょう、長野県北安曇郡小谷村)を落とし、別方面から長尾軍を牽制する。
8月29日、両軍は上野原(長野県長野市上野)で交戦するが決定的な戦いではなく、戦線は膠着した。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げた。晴信も10月には甲斐国へ帰国した。
京では、将軍・足利義輝が三好長慶、松永久秀と対立し近江国朽木谷へ逃れる事件が起きた。義輝は勢力回復のため景虎の上洛を熱望しており、長尾氏と武田氏の和睦を勧告する御内書を送った。晴信は、長尾氏との和睦の条件として、義輝に信濃守護職を要求した。義輝はこれを許し、武田氏と長尾氏の和睦が実現した。これにより、武田氏の信濃国支配が幕府により正当化されることになった。
永禄元年(1558年)、晴信は和睦を無視して北信濃へ出陣。義輝は御内書を送り和睦無視を責めるが、晴信は「信濃守護の職責を果たすため他国の侵略と戦っている」と自らの正当性を主張して、逆に景虎を責めた。
一連の戦闘によって北信濃の武田氏勢力は拡大し、長尾氏の有力な盟友であった高梨氏は本拠地中野(善光寺平北部)を失って弱体化する。このため、景虎は残る長尾方の北信濃国人衆への支配を強化して、実質的な家臣化を進めることになる。
第四次合戦
川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561年)に行われ、八幡原の戦いとも言う。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した。
一般に「川中島の戦い」と言った場合にこの戦いを指すほど有名な戦いだが、合戦の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語しかない。そのため、本節では史料的な信頼性には欠けるが『甲陽軍鑑』など江戸時代の軍記物語を元に巷間知られる合戦の経過を述べることになる。確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎である。しかしながら、『妙法寺記』や武田氏、上杉氏の感状など、この合戦があったことを伝える信頼性の高い史料は残っており、この年にこの地で激戦があったことは確かである。現代の作家などがこの合戦についての新説を述べることがあるが、いずれも史料に基づかない想像が多い。
合戦の背景
天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領・上杉憲政は越後国へ逃れ、景虎に上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を申し入れていた。永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許しを得るため、二度目の上洛を果たした。景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許された。永禄3年(1560年)、大義名分を得た景虎は関東へ出陣。関東の諸大名の多くが景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がった。北条氏康は、決戦を避けて小田原城(神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲するが、守りが堅く攻めあぐねた。
北条氏康は、同盟者の武田信玄(武田晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請し、信玄はこれに応えて北信濃に侵攻。川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築き、景虎の背後を脅かした。やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵するに及んで、景虎は小田原城の包囲を解いた。景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改めて越後国へ引き揚げた。
関東制圧を目指す政虎にとって、背後の信越国境を固めることは急務であった。そのため、武田氏の前進拠点である海津城を攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国を発向した。
合戦の経過
第4次川中島の戦い拡大
上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残した。自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り善光寺平南部の妻女山に陣取った。妻女山は川中島より更に南に位置し、川中島の東にある海津城と相対する。武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。
信玄は、24日に兵2万を率いて善光寺平西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。なお、『甲陽軍鑑』には信玄が茶臼山に陣取ったという記述はなく、茶臼山布陣はそれ以後の軍記物語によるものである。実際には善光寺平南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ったといわれている。これにより妻女山を、海津城と共に包囲する布陣となった。そのまま睨み合いが続き、武田軍は戦線硬直を避けるため、29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城した。
更に睨み合いが続き、士気の低下を恐れた武田氏の重臣たちは、上杉軍との決戦を主張する。政虎の強さを知る信玄はなおも慎重であり、山本勘助と馬場信春に上杉軍撃滅の作戦立案を命じた。山本勘助と馬場信春は、兵を二手に分ける、大規模な別働隊の編成を献策した。この別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉軍が勝っても負けても山を下るから、これを平野部に布陣した本隊が待ち伏せし、別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。これは啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられた。(信玄の軍師として知名度の高い山本勘助だが、一般的なイメージは江戸期以降の創作物によるものである。江戸期に広く読まれていた『甲陽軍鑑』でも、勘助について軍師という表現は用いていない。戦後に発見された『市河文書』では伝令将校的な武士とも取れる記述があるが、有力な支配下豪族や他国の領主との外交においては、有力家臣を「取り次ぎ役」することは当時としては一般的であり、単なる伝令とするのは事実誤認との指摘もある。評価はいまだ定まっていないが、武田家内においてしかるべき地位にあったことは、確かなようである。)
9月9日深夜、高坂昌信・馬場信春らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に鶴翼の陣で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡った。これが、頼山陽の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、甘粕景持に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。政虎自身はこの間に、八幡原に布陣した。
10日午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は愕然とした。政虎は、猛将・柿崎景家を先鋒に、車懸りの陣(車輪のスポークのように部隊を配置し、次々攻撃する陣形)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、信玄の弟の信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野源五郎らが討死するなど、劣勢であった。
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた政虎は床机(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも討ちもらした。頼山陽はこの場面を「流星光底長蛇を逸す」と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の元亀元年(1570年)である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、史実とは考えられていない。ただし、盟友関係にあった関白・近衛前久に宛てて、合戦後に政虎が送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。
政虎に出し抜かれ、もぬけの空の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信春率いる武田軍の別働隊は、八幡原に急行した。武田別働隊は、上杉軍のしんがりを務めていた甘糟隊を蹴散らし、昼前(午前12時頃)には八幡原に到着した。予定よりかなり遅れはしたが、武田軍の本隊は上杉軍の攻撃になお耐えており、別働隊の到着によって上杉軍は挟撃される形となった。形勢不利となった政虎は、兵を引き犀川を渡河して善光寺に退き、信玄も午後4時に追撃を止めて八幡原に兵を引いたことで合戦は終わった。上杉軍は川中島北の善光寺に配置していた兵3000と合流して、越後国に引き上げた。
この戦による死者は、上杉軍が3000余、武田軍が4000余と伝えられ、互いに多数の死者を出した激戦となった。信玄は、八幡原で勝鬨を上げさせて引き上げ、政虎も首実検を行った上で越後へ帰還している。『甲陽軍鑑』はこの戦を「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。合戦後の書状でも、双方が勝利を主張している。ただ、武田軍は最高幹部の武田信繁・諸角虎定が戦死しているのに対し、上杉軍の幹部に戦死者がいないため、戦術的には上杉軍優勢で終わったとの見方もある。いずれにせよ、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。
この合戦に対する政虎の感状が六通残っており、これを「血染めの感状」と呼ぶ。信玄側にも2通の感状が確認されているが、柴辻俊六を始め、主な研究者からは、文体や書体、筆跡等が疑わしいことから、偽文書であると鑑定されている。
参戦武将
武田軍
* 旗本本隊(8000人)
総大将:武田信玄
武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝(望月信頼)、穴山信君、飯富昌景、内藤昌豊、諸角虎定、原昌胤、跡部勝資、今福善九郎、浅利信種、山本勘助
* 妻女山別働隊(12000人)
高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌、小山田信茂、甘利昌忠、真田幸隆、相木昌朝、芦田信守、小山田昌辰、小幡尾張守
上杉軍(13000人)
* 総大将:上杉政虎
柿崎景家、本庄実乃、色部勝長、新発田治時、山吉豊守、安田能元、長尾政景、斎藤朝信、加地春綱、中条藤資、村上義清、北条高広、宇佐美定満、荒川伊豆守
* 直江実綱(小荷駄護衛)
* 甘粕景持(殿(しんがり))
※『甲陽軍鑑』などによる。なお、小山田信茂については戦力や当時の情勢から判断して別動隊に参加していたと推測されているが、史料上確認ができていない。『妙法寺記』に「郡内弥三郎殿は(中略)よこいれを成され候ひて」とあり、よこいれ=側面攻撃 をしたと言う記録が別働隊説の根拠とされることが多い。
第五次合戦
川中島の戦いの最終戦である第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言う。上杉輝虎(上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は川中島に出陣するが、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、にらみ合いで終わった。
上杉輝虎は、関東へ連年出兵して北条氏康との戦いを続け、武田信玄は常に輝虎の背後を脅かしていた。輝虎の信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓っている。
永禄7年(1564年)、飛騨国の三木良頼と江馬時盛の争いに、信玄が江馬氏を、輝虎が三木氏を支援して介入する。8月、輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄は善光寺平南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。以後、信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大し、輝虎は関東出兵に力を注ぎ、川中島で大きな戦いが行われることはなかった。
一連の戦いの後も北信濃の支配権は武田氏が握っていたため、戦略的には武田氏の勝ちといえる。
戦後
永禄11年(1568年)9月、織田信長が足利義昭を擁して大軍を率い、上洛を果たした。同年11月、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河国に乱入。永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれて以降、弱体化していた今川氏の領国はたちまち瓦解し、当主の今川氏真は逃亡した。これに激怒した北条氏康は、駿河国へ出兵して武田軍と戦いになり、三国同盟は崩壊した。そして時代は織田信長の台頭を巡る新たな局面に移ることになる。
武田信玄と上杉謙信の両者が病死した後も甲越両軍は川中島の領有を巡って争いが続いた。やがて互いに織田信長という共通の敵を抱えるところとなり、上杉景勝は武田勝頼の異母妹と婚を通じて和睦して甲越同盟を築き両軍の戦いに終止符は打たれた。その後上杉軍は柴田勝家を主将に前田利家、佐々成政らからなる織田軍の攻勢を本能寺の変までしのいだものの、武田軍は織田本隊と徳川連合軍によって滅亡させられた。武田家壊滅後の川中島は織田の家臣森長可によって支配されたが本能寺の変で後ろ盾を失い撤退する。その後は上杉、徳川、北条三つ巴の草刈場と化して上杉景勝が一応の成果を収めるものの豊臣秀吉によって上杉家は会津米沢へ移封されて川中島の地域は徳川の勢力下となった。一帯は戦乱や洪水で荒れ果てていたが、徳川政権により上田から海津城(松代)に移された真田氏は藩主は勿論、家臣団にとっても武田配下だった「御先祖様」活躍の地であるためもあって幕末まで戦跡は保護されたり語り継がれることとなった。
後年、天下統一をなした豊臣秀吉が川中島の地を訪れた。人々は信玄と謙信の優れた軍略を称賛したが、秀吉は「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。
狭い川中島を巡る局地戦で、信玄と謙信が兵力と10年以上の時間を浪費したため、いたずらに信長の台頭を許す結果になったと、古来、多くの論者がこの戦いを評している。それゆえに、信玄・謙信は、所詮は地方大名にすぎず、天下人となった信長、秀吉の方が器量は遥かに上であると断ずる作家や評論家は多い[要出典]。
一方で、近年の論者には、双方にとって必要な戦いであったという見方もある。すなわち、甲相駿三国同盟が戦略の大前提であった信玄にとって、後北条氏の敵対者であった謙信との対決は必然であり(後に三国同盟を破棄して駿河国へ乱入した信玄は孤立して厳しい戦略状況に陥っている)、謙信にとっても信玄の北信濃領有を易々と許せば、高梨家のみならず本国の越後国自体が危機に陥りかねないことから、両者の衝突は必然であったとするものである。
両軍の兵力
江戸時代の幕府の顧問僧であった天海の目撃情報などに基づく。
両軍の規模 上杉軍 武田軍 備考
第一次 8,000人 10,000人 小競り合いにて終結。上杉軍勝利?
第二次 8,000人 12,000人 膠着状態になり今川義元の仲介にて、旭山城の破却と、
犀川を境として北を上杉領、南を武田領とすることで和睦
第三次 10,000人 23,000人 足利義輝の仲介(御内書)にて和睦。晴信が信濃守護となる
第四次 13,000人 20,000人 前半は上杉軍勝利、後半は武田軍勝利。武田方は武田信繁・
諸角虎定・山本勘助など名立たる武将が討ち死にしているが、
上杉方に名立たる被害は無し。但し北信濃の地は武田が制圧
第五次 ?人 ?人 両軍睨み合いのまま双方撤退
異説
川中島の戦いにおける記録の中には、周知されているのとは別の説が存在する。
* 川中島の戦いは、戦を行う理由として、武田、長尾(上杉)両氏が内乱を起こしかねない臣下に対して求心力を高めるためのパフォーマンスのようなものだったとする説がある。また、同盟関係の証明のため、武田が攻めざるを得なかった、という説もある。
* 古くから流布されている「啄木鳥の戦法」については、いくつかの異論や反論が存在する。まず、妻女山の尾根の傾斜がきつく、馬が通るだけの余裕がないため、実際に挟み撃ちが可能かについて疑問が出されている。そこで妻女山に陣をしいた上杉軍を取り囲んで兵糧攻めにしたところ、窮地を脱しようと上杉軍が全軍で武田軍本陣に突撃をかけたのではないかとする説が生まれた。また、両軍ともに濃霧の中で行軍していて、本隊同士が期せずして遭遇して合戦になったという「予期せぬ遭遇説」もある。この説は、当時の合戦にしては異常ともいえる死亡率の高さの説明にもなり、状況証拠などを分析により一定の信憑性があるとされる。そもそも「啄木鳥の戦法」自体が「甲陽軍鑑」を唯一の出自としており、その「甲陽軍鑑」は史料性に疑問が持たれており、引用には注意が必要とされている。なお、「予期せぬ遭遇説」についてはNHKの「その時歴史が動いた」で紹介された。
* 妻女山は戦術的に死地にあたり(兵を動かしにくく補給も困難で囲まれやすい)、直江景綱・柿崎景家らが反対したにもかかわらず謙信はあえて陣を敷いたともいわれる。稀有な戦術眼の持ち主である上杉謙信が川中島の地形を理解していなかったはずはないため、背水の陣を敷いたのではないかとの推測もある。
* また、第四次川中島合戦に関して『浄興寺文書』(信州水内郡長沼にあった寺に伝わる文章。現在の浄興寺は場所が異なる)と言う文章に川中島合戦に関連する一節があり、そこには永禄4年9月28日、合戦の折に寺が戦火にあった旨の記述がある。文章の真偽のほどは確定していないが、この記述が事実だとすると、9月10日の戦いで両軍共に全軍の2割に達する戦死者を出しながら、なおも長期間戦いを続けていたことになってしまい、文書の日付か、合戦の日付か、戦死者数の記述のどれかが怪しい事になる。
作品
映画
* 風林火山(1969年、東宝、山本勘助…三船敏郎、武田信玄…中村錦之助、上杉謙信…石原裕次郎)
* 戦国自衛隊(1979年、東宝、伊庭義明三尉…千葉真一、長尾景虎…夏八木勲、武田信玄…田中浩)
* 天と地と(1990年、東宝、上杉謙信…榎木孝明、武田信玄…津川雅彦)
テレビドラマ
* 天と地と(1969年、NHK大河ドラマ、上杉謙信…石坂浩二、武田信玄…高橋幸治)
川中島の戦いはDVD『NHK想い出倶楽部2〜黎明期の大河ドラマ編〜 (5)「天と地と」』に収録。その他の映像は現存しない。
* 武田信玄(1988年、NHK大河ドラマ、武田信玄…中井貴一、上杉謙信…柴田恭兵)
第27回 『川中島血戦(一)』、第28回 『川中島血戦(二)』。当時の大河ドラマとしては最大規模のロケを敢行した。この回はDVD『NHK 大河ドラマ 武田信玄 完全版 第壱集』に収録されている。
* 風林火山(1992年、日本テレビ、山本勘助…里見浩太朗、武田信玄…舘ひろし、上杉謙信…高嶋政宏)
* 風林火山(2006年、テレビ朝日、山本勘助…北大路欣也、武田信玄…松岡昌宏、上杉謙信…徳重聡)
* 風林火山(2007年、NHK大河ドラマ、山本勘助…内野聖陽、武田信玄…二代目市川亀治郎、上杉謙信…Gackt)
第四次川中島の戦いが最終回。本作最大のクライマックスとなった。
* テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル 天と地と(2008年、テレビ朝日、上杉謙信…松岡昌宏、武田信玄…渡部篤郎)
小説
* 井上靖『風林火山』新潮社、改訂版2005年、ISBN 4101063079
* 新田次郎 『武田信玄』 風の巻、林の巻、火の巻、山の巻 文藝春秋 新装版 2005年 ISBN 4167112302, ISBN 4167112310, ISBN 4167112329, ISBN 4167112337
* 海音寺潮五郎『天と地と 下巻』文藝春秋、改訂版2004年、ISBN 4167135450
* 半村良『戦国自衛隊』角川書店、新装版2005年、ISBN 4041375339
その他
川中島ダービー
Jリーグのサッカークラブ、アルビレックス新潟とヴァンフォーレ甲府の試合は、それぞれ謙信と信玄にゆかりのある地をホームタウン(本拠地)としているため、現代版の川中島合戦として盛り上がる。長野での初対決で武田・上杉両軍による甲冑武者パフォーマンスが行われ、以来定着した。ちなみにダービーとは本来、地元を同じくするチーム同士の試合をいうが、日本では因縁があったり特別盛り上がる試合を指すこともあり、川中島ダービーは後者。
参考文献
* 笹本正治 監修・長野県飯山市 編『川中島合戦再考』(新人物往来社、2000年) ISBN 4404028997
* 平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い』上、下(学研M文庫、2002年)
上 ISBN 4059011266、下 ISBN 4059011347
* 三池純正『真説・川中島合戦 封印された戦国最大の白兵戦』(洋泉社新書y、2003年) ISBN 4896917529
* 柴辻俊六『信玄の戦略―組織、合戦、領国経営』(中央公論新社、2006年) ISBN 4121018729
* 柴辻俊六『武田信玄合戦録』(角川学芸出版 、2006年) ISBN 4047034037
* 桑田忠親監修『日本の合戦(3)群雄割拠』 (新人物往来社、1978年) ISBN B000J8ONFG
* 桑田忠親『新編日本合戦全集 応仁室町編』(秋田書店、1990年)ISBN 4253003796
* 『クロニック戦国全史』 (講談社、1995年)ISBN 4062060167
* 杉山博 『日本の歴史 (11) 戦国大名』(中央公論新社、1974年)ISBN 4122000866
* 磯貝正義、服部治則校注『甲陽軍鑑(上)(中)(下)』(新人物往来社、1965年)
* 小林計一郎『武田軍記』(新人物往来社 1967、朝日文庫 復刊、いずれも絶版)
関連項目
* 日本史の出来事一覧
* 日本の合戦一覧
* 川中島古戦場
外部リンク
* 【川中島の戦い】長野市「信州・風林火山」特設サイト…財団法人ながの観光コンベンションビューロー開設。歴史解説、史跡・観光・イベント案内。
* 越後上杉氏
●賤ヶ岳の戦い中野藪之内だんじり(屋台)の彫物図柄「賤ヶ岳の七本槍」についての豆知識です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3%E3
%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)とは天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県伊香郡)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いである。織田勢力を二分する激しい戦いとなり、秀吉はこの戦いに勝利することによって織田信長の作り上げた権力と体制の継承者となることを決定づけた。
賤ヶ岳の戦い
戦争:戦国時代 (日本)
年月日:(1583年4月)
場所:賤ヶ岳付近
結果:羽柴軍の勝利
交戦勢力
羽柴軍 柴田軍
指揮官 羽柴秀吉 柴田勝家
羽柴秀長 前田利家
佐久間盛政
戦力 50,000 30,000
清洲会議
天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長が本能寺の変で重臣の明智光秀によって殺害されると、その後間もない山崎の戦いで光秀を倒した羽柴秀吉が信長旧臣中で大きな力を持つに至った。6月27日(7月16日)、当主と嫡男を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ(清洲会議)、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と信長の嫡男織田信忠の子である三法師(のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しく対立した。結果的には同席した丹羽長秀・池田恒興らが三法師擁立に賛成したためにこの後継者問題はひとまず決定した。さらに秀吉は翌月に自らの主催で大規模な信長の葬儀を執り行い、8月には京都奉行として自らの一門筋である浅野長政・杉原家次をすえた。勝家や信孝らは秀吉のこれらの一連の行動を自らの政権樹立のためであると考え、激しく警戒し、敵意を抱いた。
各地の動き
この後双方とも周囲の勢力を自らの協力体制に持ち込もうと盛んに調略を行うが、北陸の柴田氏の後方にある上杉景勝や信孝の地盤である美濃の有力部将・稲葉一鉄が羽柴秀吉になびくなど、やや秀吉に有利な状況にあった。一方で勝家は四国の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を取り込み、特に雑賀衆は秀吉の出陣中に和泉岸和田城などに攻撃を仕掛けるなど、後方を脅かしている(なお、おそらくこの際の岸和田城攻防戦が伝説化され、大蛸に乗った法師が雑賀・根来衆を追い払ったとする蛸地蔵伝承へと変化した)。
11月、勝家は前田利家・金森長近・不破勝光を秀吉のもとに派遣し、秀吉との和睦を交渉させた。これは勝家が北陸に領地を持ち、冬には雪で行動が制限されることを理由としたみせかけの和平であった。秀吉はこのことを見抜き、逆にこの際に三将を調略したと見られる。
12月2日(12月26日)、秀吉は毛利氏対策として山陰は宮部継潤、山陽は蜂須賀正勝を置いた上で、和睦を反故にして大軍を率いて近江に出兵、長浜城を攻撃した。北陸は既に雪深かったために勝家は援軍が出せず、さらに勝家の養子でもある城将柴田勝豊は、わずかな日数で秀吉に降伏してしまった。さらに秀吉の軍は美濃に進駐、稲葉一鉄などから人質を収めるとともに、12月20日(1583年1月13日)には岐阜城にあった織田信孝を降伏させた。
翌天正11年(1583年)正月、伊勢の滝川一益が柴田勝家への旗幟を明確にして挙兵し、峯城や亀山城を落城させた。秀吉は諸勢力の調略や牽制もあり、一時京都に兵を退いていたが、翌月にはこれらへの攻撃を再開、2月中旬には峯城・亀山城と一益の本拠である長島城を攻撃し、亀山城は3月3日(4月24日)に開城した。
一方で越前・北ノ庄城にあった柴田勝家は雪のため動けずにいたが、これらの情勢に耐え切れず、ついに2月末、残る雪をかきわけつつ近江に向けて出陣した。
合戦
布陣
3月12日(5月3日)、勝家は前田利家、佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了させた。秀吉も直ちに兵を出し、3月19日(5月10日)には5万といわれる兵力を率いて木ノ本に布陣した。双方直ちに攻撃に打って出ることはせず、しばらくは陣地や砦を盛んに構築した(遺構がある程度現在も残る)。3月27日(5月18日)、戦線の膠着もあり秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還した。
美濃返し
4月16日(6月6日)、一時秀吉に降伏していた織田信孝が滝川一益と結んで再び挙兵して岐阜城下へ進出した。秀吉は翌4月17日(6月7日)直ちに美濃に進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城に入った。秀吉の軍勢が多く近江から離れたのを好機と見た勝家は部将・佐久間盛政の意見具申もあり、4月19日(6月9日)、盛政に直ちに大岩山砦を攻撃させた。大岩山砦を守っていたのは中川清秀であったが、耐え切れず陥落、中川は討死、さらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃、右近も支えきれずに退却し、木ノ本の羽柴秀長の陣所に逃れた。この成果を得て勝家は盛政に撤退の命令を下したが、再三の命令にもかかわらず盛政はこれを拒否、大岩山などに軍勢を置き続けた。
4月20日(6月10日)、劣勢であると判断した賤ヶ岳砦の守将、桑山重晴も撤退を開始する。これにより盛政が賤ヶ岳砦を占拠するのも時間の問題かと思われた。しかしその頃、時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた丹羽長秀が「一度坂本に戻るべし」という部下の反対にあうも機は今を置いて他に無いと判断し、進路を変更して海津への上陸を敢行した事で戦局は一変。長秀率いる 2000の軍勢は撤退を開始していた桑山重晴の軍勢とちょうど鉢合わせする形となるとそれと合流し、そのまま賤ヶ岳周辺の盛政の軍勢を撃破し間一髪の所で賤ヶ岳砦の確保に成功する。
更に同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の陣所の落城を知り、直ちに軍を返した。14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの丘陵地帯を含む52kmを僅か5時間で移動した。この急激な行軍速度を成功させた理由については諸説あるが、あらかじめ沿道に松明を点け、さらに食事の補給個所も用意もさせていたという。僅かな時間で帰還した秀吉の大軍に驚いた佐久間盛政は同深夜に撤退を開始するものの、翌日の未明に秀吉らの大軍に強襲された。盛政の軍が善戦したために秀吉は盛政の救援に向かっていた柴田勝政に攻撃対象を変更、この勝政の軍に盛政が逆に救援し、激戦となった。
ところがこの最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如戦線離脱した。このため利家と対峙していた軍勢が柴田勢への攻撃に加わった。さらに柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却したため、佐久間盛政の軍を撃破した秀吉の軍勢は柴田勝家本隊に殺到した。多勢に無勢の状況を支えきれず勝家の軍勢は総崩れし、ついに勝家は越前・北ノ庄城に向けて退却した。
合戦後
勝家は北ノ庄城に逃れるものの、4月23日(6月13日)には前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らとともに自害した。また佐久間盛政は逃亡するものの捕らえられて斬首され、首は京の六条河原でさらされた。また、柴田勝家の後ろ盾を失った織田信孝や滝川一益には抵抗する力もなく、翌月に両者とも降伏し、まもなく信孝は切腹、一益は剃髪・出家させられた。
この合戦の結果によって、多くの織田氏の旧臣が秀吉に接近、臣属するようになった。また、合戦終了の2日後の4月25日(6月15日)に秀吉は中国地方の戦国大名・毛利輝元の重臣・小早川隆景に書簡を送り、自軍の勝利に終わったことを報告するとともに、中立状態にあった毛利氏の自らへの服属を暗にうながした。戦後処理終了後、秀吉はまもなく畿内に大坂城の築城を開始し、また同年5月には朝廷から従四位下参議に任命された。また、秀吉のもとに徳川家康・上杉景勝・毛利輝元・大友義統など各地の戦国大名が相次いで使者を派遣し、戦勝を慶賀し親交を求めたことも秀吉の畿内における権力掌握を象徴した。
賤ヶ岳の七本槍
秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり)と呼ばれる。実際に感状を得、数千石の禄を得たのは桜井佐吉、石川兵助一光も同様である。7人と言うのは後の語呂合わせで(ただし彼らが挙げたとされる手柄は勝利が確定した後の追撃戦によるもののみであり、一番手柄も大谷吉継、石田三成らの先駆衆と呼ばれる武士達に与えられている)後の豊臣政権において大きな勢力をもったが、譜代の有力な家臣をもたなかった秀吉が自分の子飼いを過大に喧伝した結果ともいえる。福島正則が「脇坂などと同列にされるのは迷惑だ」と言った、加藤清正も「七本槍」を話題にされるのをひどく嫌ったなどの逸話が伝えられており、当時から「七本槍」が虚名に近いという認識が広まっていたと推定される。
脇坂氏を除く大半が徳川政権になってからは御家取り潰しなど苦難に遭った。
* 福島正則(1561年 - 1624年)
* 加藤清正(1562年 - 1611年)
* 加藤嘉明(1563年 - 1631年)
* 脇坂安治(1554年 - 1626年)
* 平野長泰(1559年 - 1628年)
* 糟屋武則(1562年 - 1607年)
* 片桐且元(1556年 - 1615年)
参考文献
* 高柳光寿『戦史ドキュメント 賤ケ岳の戦い』(学研M文庫、2001年) ISBN 4-05-901025-1
* 『歴史群像シリーズ15 賤ヶ岳の戦い 「秀吉VS勝家」覇権獲得への死闘』(学習研究社、1989年) ISBN 4-05-105152-8
関連項目
* 日本槍柱七本
* 美濃大返し