
■2008年撮影のお祭り写真を現在アップ中です(^^♪
■現地で「掲載します」とお約束した皆様、あと少しお待ちくださいね。
■今後、掲載予定の秋祭りなど
(23日)伊予三島秋祭り三島地区夜太鼓統一運行 駅前通り〜中央本通り〜三島神社
(22日)伊予三島秋祭り三島地区統一運行(伊予銀行前)、寒川・豊岡地区統一寄せ
(19日)新居浜太鼓祭り船御幸、綾延神社殿中奴
(17日)新居浜太鼓祭り上部統一かき比べ
(16日)伊曽乃神社お旅所の続き、西条駅前等での後夜祭
(15日)みこし(御輿)のねり比べ、七泰会、植村会
(15日)石岡神社お旅所内外・宮入り、丹原町統一かきくらべ
(14日)石岡神社本殿祭、土居太鼓まつりかき比べ等
(13日)高尾神社秋祭り、氷見新町屋台改修記念式
(12日)加茂神社例祭(福武祭)、秋季弁天祭り、神拝荒神祭、橘新宮神社
(12日)御所明神まつり、磐根神社毛槍投げ奴、嘉母神社祭礼宮出し・難波
(11日)東予秋祭り統一運行、パルティ・フジ東予店前かきくらべ
(11日)保内八幡神社秋季大祭、三津屋子供太鼓台・だんじり
などを順次アップします ■掲載完了の秋祭りなど ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 御旅所」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 御殿前」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 川入り・宮入り」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 宮出し」などはここから ●
「2008 伊曽乃川人会・御所神社祭り・下喜多川御輿十周年、日明格納庫
中西御輿改修、四国の祭りなど」はここから ●
「2008 新居浜太鼓まつり 大江浜かきくらべ、一宮神社かき比べ
西原vs新須賀、阿島vs松神子太鼓台、川東西部かき比べ(国領川河川敷公園)
又野・萩生西太鼓台新調、江口太鼓台、にいはま夏祭り、東田太鼓台新営」はここから ●
「2008 土居太鼓祭り 蕪崎太鼓台新調お披露目」などはここから ●
「2008 飯積神社祭礼 宮出し、渦井川(うずゐがわ)川原・船屋グラウンドかきくらべ、
飯岡本郷太鼓台新調、飯岡八幡太鼓台新営」などはここから ●
「2008 石岡神社例大祭 石岡神社宵祭り(前夜祭)、楢木(楢の木)屋台改修
桜木神社祭礼、高尾神社例大祭(春祭り)」などはここから ●
「2008 禎瑞嘉母神社祭礼 禎瑞高丸・難波・上組子供太鼓台」などはここから ●
「2008 東予秋祭り 壬生川宵祭り(前夜祭)、明理川・本町だんじり」などはここから ●
「2008 小松秋祭り 三嶋神社祭礼宮入り(階段上げ)、石土神社浦安神楽」などはここから ●
「2008 丹原秋祭り 中川ふるさと祭り」などはここから ●
「2008 第27回伊勢音頭フェスティバル」はここから 2008年(平成20年)10月15日に西条建設業会館で行われた伊曽乃川人会(いそのかわんどかい)のだんじり寄せでの登道(のぼりみち)・富士見町だんじり(屋台)です。
伊曽乃神社祭礼関係の写真は今後も、(16日)伊曽乃神社お旅所の続き、西条駅前等での後夜祭 (15日)みこし(御輿)のねり比べ、伊曽乃川人会の続き、七泰会、植村会 (12日)加茂神社例祭(福武祭)、秋季弁天祭り、神拝荒神祭、橘新宮神社、御所明神まつりなどをアップしていく予定です。

西条建設業会館での登道だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 伊曽乃川人会(いそのかわんどかい) その1 登道(のぼりみち)・富士見町だんじり(屋台) 西条市上神拝 西条建設業会館 2008.10.15
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
■二十四番 登道だんじり(屋台) 大町地区
製作年 平成元年
彫刻 川人三郎
大工 金森秀夫
素木・三階。彫物図柄はぬえ退治などの「武者」。明治製作の旧屋台(2階建)の彫刻を再現したもの。水引幕は白地に金糸の源氏車紋が2つ。
*屋台の情報については、「山車・だんじり悉皆調査」さまより、引用させていただきました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/ehime-touyo.htm

西条建設業会館での登道だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 伊曽乃川人会(いそのかわんどかい) その1 登道(のぼりみち)・富士見町だんじり(屋台) 西条市上神拝 西条建設業会館 2008.10.15
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

西条建設業会館での登道だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 伊曽乃川人会(いそのかわんどかい) その1 登道(のぼりみち)・富士見町だんじり(屋台) 西条市上神拝 西条建設業会館 2008.10.15
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

西条建設業会館での富士見町だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 伊曽乃川人会(いそのかわんどかい) その1 登道(のぼりみち)・富士見町だんじり(屋台) 西条市上神拝 西条建設業会館 2008.10.15
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
■六十番 富士見町だんじり(屋台) 神拝地区
製作年 平成6年(1994)
彫刻 川人三郎
大工 瀬尾晃
素木・三階。彫物図柄は「源平合戦」。水引幕は金糸の源氏車の紋が2つ。後で赤富士の刺繍を追加。
*屋台の情報については、「山車・だんじり悉皆調査」さまより、引用させていただきました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/ehime-touyo.htm

西条建設業会館での富士見町だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 伊曽乃川人会(いそのかわんどかい) その1 登道(のぼりみち)・富士見町だんじり(屋台) 西条市上神拝 西条建設業会館 2008.10.15
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

西条建設業会館での富士見町だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 伊曽乃川人会(いそのかわんどかい) その1 登道(のぼりみち)・富士見町だんじり(屋台) 西条市上神拝 西条建設業会館 2008.10.15
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
■私の撮影した2008年(平成20年)の伊曽乃神社祭礼御旅所の写真は、右側のリンクの「2008 伊曽乃神社祭礼御旅所」をクリックして順次ご覧ください。

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●お祭り豆知識●●伊曽乃川人会(いそのかわんどかい)「伊曽乃川人会(いそのかわんどかい)」のホームページより引用させていただきました。
http://kawandokai.s9.coreserver.jp/isonokawando.html
伊曽乃川人会(いそのかわんどかい)
設立
平成10年9月
概要と目的
伊曽乃神社祭礼に奉納するだんじりの内、香川県観音寺市在住の『川人三郎』氏が、彫刻されました上神拝・船形・御所通り・登道・富士見町(製作年順)の五台のだんじりが、いつまでも大切に保存され、伊曽乃神社祭礼に末永く奉納できることに願いを込めて、この会を発足しました。また、川人だんじりを語り合うことで、各町内の青年団の親睦を深めるとともに川人だんじりの良さを次の世代へ伝承していくことを、目的としています。 平成17年、清水町入会により、現在六屋台で、運営しております。
●源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)富士見町だんじり(屋台)の彫物図柄「源平合戦」についての豆知識です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%83%BB%E5%AF
%BF%E6%B0%B8%E3%81%AE%E4%B9%B1
治承・寿永の乱
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平氏政権に対する反乱が起こる。最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。
戦争:治承・寿永の乱
年月日:治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)
場所:奥州以外の全国各地
結果:源頼朝の最終的勝利
交戦勢力
治承・寿永の乱
以仁王の挙兵 - 石橋山 - 波志田山 - 衣笠城 - 市原 - 鉢田 - 富士川 - 金砂城 - 鎮西反乱 - 美濃源氏の挙兵 - 近江攻防 - 南都 - 菜切 - 墨俣川 - 伊予河野氏の蜂起 - 横田河原 - 養和の北陸出兵 - 野木宮 - 火打城 - 般若野 - 倶利伽羅峠 - 志保山 - 篠原 - 竹野城 - 福隆寺畷 - 水島 - 室山 - 法住寺 - 宇治川 - 粟津 - 下津井 - 沼田城 - 三草山 - 一ノ谷 - 三日平氏 - 藤戸 - 葦屋浦 - 屋島 - 志度 - 壇ノ浦
背景
平氏の隆盛
平安時代の末期、皇族・貴族内部の権力闘争が、保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった。こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、武士の身分でありながら異例の栄達を遂げ(平清盛の実父が白河法皇だったためとする説もある)、仁安2年(1167年)には太政大臣となる。平氏一門は主要官位を占め、多数の知行国を得て、事実上の平氏政権が成立した。
鹿ケ谷の陰謀
詳細は鹿ケ谷の陰謀を参照
平清盛一族(平氏)の隆盛は、旧来の勢力である他の貴族や皇族の権益を圧迫した。武士身分出身である平氏への嫌悪も手伝って、貴族層を中心に平清盛政権への反発が密かに広まった。これが具体化したものが、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀である。陰謀は程なく発覚し、荷担した貴族や武士(多くは後白河法皇の近臣)が追放された。この事件以降、平氏政権と後白河法皇の関係は急速に悪化した。
経緯
前期
以仁王の挙兵
詳細は以仁王の挙兵を参照
治承3年(1179年)11月に平清盛によるクーデターで後白河法皇が幽閉され、翌年2月、高倉天皇が言仁(ときひと)親王に譲位(安徳天皇)。平氏政権は盤石の体制を築いていった。
治承4年(1180年)、皇位継承がほぼ絶望となった以仁王が、摂津源氏である源頼政の勧めに応じて、平氏追討・安徳天皇の廃位・新政権の樹立を計画した令旨を発して挙兵する。しかし挙兵直前に企てが発覚したことと併せて期待していた令旨に呼応する挙兵勢力も現れなかった。そして、平知盛・平重衡率いる平氏の大軍によって、同年5月に宇治の平等院で源頼政一族は敗死することになるが、この挙兵が後6年間にわたる内乱の契機となる。
関東武士団の挙兵
詳細は石橋山の戦いを参照
以仁王敗死の直後から、以仁王への同調者らによって令旨が各地に雌伏する河内源氏へと伝達された。そのうちの1人である源頼朝は、6月末頃から河内源氏累代の家人とされる相模・伊豆・武蔵の武士団への呼びかけを始めて、8月17日には、伊豆在住の山木兼隆を襲撃して殺害する。その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦して頼朝軍は惨敗する(石橋山の戦い)。
頼朝は、海路で安房国へ移動して相模三浦半島の豪族である三浦氏と合流した後、安房の在庁官人をはじめ房総半島の上総広常、千葉常胤、武蔵の足立遠元、畠山重忠らの諸豪族を傘下に加えながら急速に大勢力となっていく。この勢力の大部分は、関東一帯に勢力をはる平氏系武士であり、在地領主でもあった。当時、武士身分の領地所有は不安定であって頼朝軍への急速な武士の集結の背景には、武士による権利確立への強い希求があったのではないかと考えられている。10月6日、頼朝は先祖のゆかりの地である相模国鎌倉へ入って本拠地とする。これにより関東政権(後の鎌倉幕府)が樹立する。また、この時までに関東政権は関東南部の実質的な支配権を獲得している。
富士川の戦い
詳細は富士川の戦いを参照
同時期に、関東では甲斐源氏の武田信義も挙兵していた。関東での状況を受けて平氏政権は平維盛、平忠度らが率いる追討軍を派遣した。追討軍は東海道を下り、10月18日、駿河国黄瀬川で源頼朝、武田信義の関東連合軍と対峙する。大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。これに乗じて頼朝は上洛も検討するが、関東政権の大勢は東国経営の優先を望んだために鎌倉に帰還した。その後、頼朝は巨大となった武士団を統率するため侍所を新設し、和田義盛を別当、梶原景時を所司に任じる。
関東経営
当時の関東の武士にとって、最優先事項であったのは関東内部の政治的安定である。京都の中央政府への復帰を目指していた頼朝とは目的を異にしていたものと考えられている。頼朝には、自らの支持勢力の権利を確保することが求められており、実際に頼朝は、志田義広、新田義重、佐竹氏や足利忠綱といった関東在住の非支持勢力を排除するか、もしくは、屈服させることに非常に尽力している。
地方武士団・源義仲の挙兵
関東以外でも反平氏勢力の動向は活発となっていった。土佐の源希義をはじめ、河内源氏のかつての本拠地だった河内石川の源義基・義兼父子、美濃の土岐氏、近江の佐々木氏、山本義経、熊野の湛増、伊予の河野氏、肥後の菊池氏らのほか、若狭・越前・加賀の在庁官人など、多くの勢力による挙兵があった。
頼朝の挙兵と同時期の治承4年(1180年)9月、信濃の源義仲(木曾義仲)が挙兵し1181年6月横田河原の戦いで勝利を収め、信濃から越後を席巻した。一時は上野まで進んだが頼朝とは合流せずに北陸方面へ転進する。その後、義仲を頼って来た以仁王の子(北陸宮)を推戴し、北陸一帯を平定した。
清盛の死
畿内においても寺社勢力を中心に反平氏勢力の動きが活発化していた。それを封じるため、治承4年(1180年)12月、平重衡は東大寺・興福寺を焼き討ちにした(南都焼討)が、より一層、平氏への抵抗を強める結果となった。治承5年(1181年)1月には、紀伊の熊野三山勢力が挙兵して、伊勢や志摩で平氏側勢力と交戦するという動きもあった。
そうした中の同年閏2月に、平清盛が熱病で没して平氏政権は強力な指導者を失う。しかし、直後の3月、平氏政権は再び東海道へ追討軍を派遣し、尾張墨俣川で関東政権軍と会戦して平氏軍が勝利を収めた(墨俣川の戦い)。この結果、源氏軍による東海道方面の進撃は一時中断することとなる。しかし平家はこの年から活発化した北陸の反平家勢力の蜂起は見過ごすことができず、8月に平通盛・経正を将とする軍を派遣する。しかし、通盛と経正の連携が上手くいかない上に、兵糧不足になやまされた平家は北陸地方の反乱を鎮圧することができずに北陸から撤収する。
この年、京都では「養和」と改元されたが、頼朝ら反平氏勢力はこれを認めずに治承の元号を用いた。この年から翌年にかけて養和の飢饉という大飢饉が起きたことに加え、平氏政権は安徳天皇の大嘗祭の実施(11月24日)を優先し、源氏軍も頼朝が未だに平治の乱の赦免を受けておらず、上洛のための政治的・軍事的条件を整える時間が必要であった。九条兼実の日記『玉葉』にはこの年の8月1日条にて、先頃後白河法皇の元に頼朝の密使が送られたことを記している。
中期
源義仲の上洛
源義仲の勢力を討つために、寿永2年(1183年)4月、平氏は平維盛、平通盛率いる大軍を派遣する。平氏軍は越前、加賀の反乱勢力を破って5月には加賀・越中国境の倶利伽羅峠で義仲軍と対峙したが敗北する(倶利伽羅峠の戦い)。
義仲軍は、北陸宮を推戴しながら京都へ進軍して源行家、多田行綱(源行綱)、安田義定(源義定)らの多方面攻撃によって平氏の京都防衛線を破る。そして7月、平宗盛を中心とする平氏一門は、安徳天皇や三種の神器を保持しながら都落ちして西国に逃れていく。義仲軍は上洛を果たす。当初、後白河上皇以下、貴族から庶民まで義仲の入京を歓迎したが、前年の飢饉の影響により義仲軍を養う食糧が不足して義仲軍は市中で略奪や狼藉を始めたために義仲の評判は落ちて、源頼朝の上洛を願う声が高まっていく。
同年9月、義仲軍は平氏追討のため山陽道へ出立して閏10月に義仲軍は備中水島で平重衡率いる平氏軍に敗れる(水島の戦い)。これにより山陽道の平氏勢力が盛り返して義仲は連敗しながら京都に帰還する。
寿永二年十月宣旨
詳細は寿永二年十月宣旨を参照
頼朝は、後白河法皇から上洛を催促されたが、鎌倉に留まって逆に法皇へ東海道・東山道・北陸道の国衙領・荘園をもとのように、国司・本所へ返還させる内容の宣旨発布を要請する。その結果、法皇は義仲への配慮のため北陸道は除いたが、ほぼ上記の内容を認める寿永二年十月宣旨を頼朝へ発して東海道・東山道の荘園・国衙領を元の通り領家に従わせる権限(沙汰権)が頼朝に認められた。頼朝は、既に実質的に東国を支配していたが、この宣旨発給は、頼朝が東国支配権を政府に公認され、その正統性を獲得したことを意味する。
義仲の滅亡
一方で、頼朝は、義仲に対する牽制として源範頼、源義経らに京都への進軍を命じて範頼・義経軍は11月初めには近江まで到着した。その間、山陽道で敗北を重ねていた義仲は、京都への帰還直後に法皇との関係が決裂して味方の離反もあり孤立感を深めていった。11月19日、義仲は後白河法皇を幽閉し、摂政近衛基通や院の近臣を更迭した後に松殿師家を摂政に任じるクーデターを行った(法住寺合戦)。この結果、法皇と義仲の連携が成立して12月に法皇は義仲に頼朝追討の院宣を発した。そして翌3年(1184年)正月、義仲は征夷大将軍(または征東大将軍)に任命された。これは緊急時における政治大権を武士に付与することを意味する画期的な事件でもあった。
このような情勢下の1月20日、範頼軍と義経軍は、それぞれ京都近郊の勢多と宇治で待ち受ける義仲軍と交戦して勝利し(宇治川の戦い)、義経軍はそのまま入洛して法皇の身柄を確保した。義仲は近江粟津で戦死した。
後期
一ノ谷の戦い
詳細は一ノ谷の戦いを参照
義仲の滅亡に至るまでの間、平氏は勢力を立て直し寿永3年(1184年)正月には摂津福原まで戻っていた。京都に駐留していた範頼・義経軍は、後白河上皇による平氏追討の宣旨を獲得して京都から福原へ向かう。範頼・義経軍は二手に分かれて平氏軍を急襲する。激戦の末、平氏軍を海上へ敗走させた(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は多くの有能な武将を失い、後の戦いに大きな影響を及ぼした。
屋島の戦い
詳細は屋島の戦いを参照
一ノ谷の戦いで敗れた平氏は讃岐屋島に陣を構えて内裏を置いた。鎌倉政権軍は水軍を保有しておらず、源氏方は水軍編成のために、平氏方は兵力再建のために暫く休戦が続いた。半年が経過した8月、範頼軍は平氏軍を背後からつくため山陽道を進軍したが、長く延びた戦線を平行盛によって分断された。また、関門海峡も平知盛によって封鎖されて兵糧不足に陥った。元暦2年(1185年)、範頼軍は九州へ渡ったが、思わしくない戦況に頼朝は義経へ平氏追討の命令を出した。同年2月、義経は阿波勝浦へ上陸後、在地武士を味方に引き入れて陸路屋島の平氏本陣を攻め落した(屋島の戦い)。
壇ノ浦の戦い
詳細は壇ノ浦の戦いを参照
屋島の戦いの後も、瀬戸内海を中心に小規模な戦闘が続いて両者とも一進一退を繰り返していた。しかし、範頼軍に援軍が来るという情報を得た平氏軍は長門へ撤退する戦略を選択する。この結果、平氏軍は関東政権軍へ瀬戸内海の制海権を明け渡すこととなり、熊野別当湛増が率いる熊野水軍や,河野通信らの水軍を始めとする中国・四国の武士が続々と鎌倉政権へ味方した。
元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で平氏軍と関東政権軍の間で海戦が行われた(壇ノ浦の戦い)。午前6時頃、平氏軍からの攻撃により戦いは始まった。序盤は平氏が優勢であったが、正午過ぎから平氏が劣勢となっていく。阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。この戦いで平氏は滅亡した。
意義
平氏政権の排除
乱の以前、平氏政権は主要官職を占めて多くの知行国を保有していた。このために、平氏政権に権益を奪われた旧勢力(皇族、貴族、寺社)により平氏政権の排除が企図された。最終的にはそれが成功したのだが、旧勢力は平氏政権が保有していた権益をすべて奪還することはできなかった。
武士政権の成立
旧勢力に平氏政権を排除する力(軍事力)はなく、その力を持っていたのは武士層であった。当初、関東や北陸で勃興した反平氏勢力は、旧勢力の期待するところであって平氏政権を排除した後は、それまでの歴史の通りにいずれ中央政府に帰順するものと考えられていた。しかし、これらの反平氏勢力は平氏追討を建前として掲げてはいたが、本音では自らの権利の確保、そして中央政府からの一定範囲での独立を真の目的としていた。旧勢力にとっては、武士はあくまで家人であって対等の相手として扱う対象ではなかった。そのため、旧勢力は東国武士たちの本音を読みとることができずに目先にある平氏打倒という目的のため、寿永二年十月宣旨の発給や源義仲の征夷大将軍への任命などといった、武士への大幅な権限委譲への道を開いてしまう。
そして、結果的として鎌倉幕府の成立がもたらされる。草創期の鎌倉幕府は、東国の支配権を有するのみだったが、それは当時の幕府を構成する武士たちにとって十分満足できる結果だったはずである。
だが、創成期の武家政権と既存の朝廷勢力の権限を巡る駆け引きと緊張関係は引き続き存在し、その一応の解決をみるのは承久の乱以後の事である。
「源平合戦」という呼称について
治承・寿永の乱は、源平合戦(または「源平の戦い」)と呼ばれることも多い。この争乱が以仁王の「平氏追討」の令旨に始まること、平氏政権から頼朝政権(鎌倉幕府)に交代したこと、民間レベルでは『平家物語』や『源平盛衰記』などの影響から清盛・宗盛ら平氏一門と頼朝・義経・義仲ら源氏一門の争いと受け取られてきたことなどが、この呼称を生んだといえる。
しかし、平氏政権に反旗を翻した勢力は源氏一族のみで構成されていたわけではなく、単純に源氏と平氏の争いとは言えない。また、この争乱は、一族や家族、地域の共同体という横の絆と、主君と家臣という縦の絆の相克があり、命を懸けて戦った武士の全てが源氏や平氏という特定氏族に収斂されるわけでもない。更に、平氏政権も頼朝政権も共に「院政の克服」という歴史的課題を背負い、その中から生じた政権であることなどから、歴史学上はこの呼称は適切とは言えず、年号を付して呼ぶ方が妥当であるとされる。
また、「源平合戦」の呼称は、氏族を強調するあまり、源氏と平氏の氏族内のねじれ関係をうまく説明できない。確かに、甲斐源氏の武田信義や木曾の源義仲など、反平氏の掛け声のもとに挙兵をした源氏一族は多い。しかし、源氏一族に属していても、平氏に縁(ゆかり)や義理があって同族に弓を引いた者もいた。この現象は、平治の乱に既に見られる。摂津源氏の源頼政は、河内源氏の源義朝とは完全に別行動を取っている。
源氏同士、平氏同士が争う現象は日本各地で見られた。父系で見れば源氏だが、母系で見れば平氏、またはその逆という武将も少からずいて、去就に苦慮した者や、一族が2つに分かれて争った者もいる。一族相克の物語は戦国時代に多いが、この時代に既に始まっている。武士は発生当初から血縁的要素よりも地縁的要素の強い集団であったが、この乱は日本を一層の地縁社会へと導くことになった。
源頼朝に従った平氏
北条時政、熊谷直実、畠山重忠、梶原景時、三浦義澄、千葉常胤、上総広常 など多数。
源頼朝に従わなかった源氏
新田義重、志田義広、佐竹秀義、源季貞 など。
史料
* 『玉葉』
* 『吾妻鏡』
* 『吉記』
* 『愚管抄』
* 『山槐記』
* 『百錬抄』
関連項目
* 平家物語
* 寿永二年十月宣旨
* 養和の飢饉(1181年に発生。京都が大混乱に陥った。)
* 赤間神宮
* 平家の落人
* 全国平家会
* 須磨寺