
■2008年撮影のお祭り写真を現在アップ中です(^^♪
■現地で「掲載します」とお約束した皆様、あと少しお待ちくださいね。
■今後、掲載予定の秋祭りなど
(23日)伊予三島秋祭り三島地区夜太鼓統一運行 駅前通り〜中央本通り〜三島神社
(22日)伊予三島秋祭り三島地区統一運行(伊予銀行前)、寒川・豊岡地区統一寄せ
(19日)新居浜太鼓祭り船御幸、綾延神社殿中奴
(17日)新居浜太鼓祭り上部統一かき比べ
(16日)伊曽乃神社お旅所の続き、西条駅前等での後夜祭
(15日)みこし(御輿)のねり比べ、七泰会、植村会
(15日)石岡神社お旅所内外・宮入り、丹原町統一かきくらべ
(14日)石岡神社本殿祭、土居太鼓まつりかき比べ等
(13日)高尾神社秋祭り、氷見新町屋台改修記念式
(12日)加茂神社例祭(福武祭)、秋季弁天祭り、神拝荒神祭、橘新宮神社
(12日)御所明神まつり、磐根神社毛槍投げ奴、嘉母神社祭礼宮出し・難波
(11日)東予秋祭り統一運行、パルティ・フジ東予店前かきくらべ
(11日)保内八幡神社秋季大祭、三津屋子供太鼓台・だんじり
などを順次アップします ■掲載完了の秋祭りなど ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 御旅所」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 御殿前」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 川入り・宮入り」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 宮出し」などはここから ●
「2008 伊曽乃川人会・御所神社祭り・下喜多川御輿十周年、日明格納庫
中西御輿改修、四国の祭りなど」はここから ●
「2008 新居浜太鼓まつり 大江浜かきくらべ、一宮神社かき比べ
西原vs新須賀、阿島vs松神子太鼓台、川東西部かき比べ(国領川河川敷公園)
又野・萩生西太鼓台新調、江口太鼓台、にいはま夏祭り、東田太鼓台新営」はここから ●
「2008 土居太鼓祭り 蕪崎太鼓台新調お披露目」などはここから ●
「2008 飯積神社祭礼 宮出し、渦井川(うずゐがわ)川原・船屋グラウンドかきくらべ、
飯岡本郷太鼓台新調、飯岡八幡太鼓台新営」などはここから ●
「2008 石岡神社例大祭 石岡神社宵祭り(前夜祭)、楢木(楢の木)屋台改修
桜木神社祭礼、高尾神社例大祭(春祭り)」などはここから ●
「2008 禎瑞嘉母神社祭礼 禎瑞高丸・難波・上組子供太鼓台」などはここから ●
「2008 東予秋祭り 壬生川宵祭り(前夜祭)、明理川・本町だんじり」などはここから ●
「2008 小松秋祭り 三嶋神社祭礼宮入り(階段上げ)、石土神社浦安神楽」などはここから ●
「2008 丹原秋祭り 中川ふるさと祭り」などはここから ●
「2008 第27回伊勢音頭フェスティバル」はここから 2008年(平成20年)10月16日の御旅所(お旅所)での福武新田・福武天皇だんじり(屋台)です。
御旅所では全屋台を撮影しましたが、撮影済みのCF(コンパクトフラッシュ)を1枚紛失し、大町地区の一部のデータをなくしてしまったようです(涙)。他の屋台の差し上げ(さしあげ)中心の写真を、順次アップしていきますね。
伊曽乃神社祭礼関係の写真は今後も、(16日)伊曽乃神社お旅所の続き、御殿前の続き、西条駅前等での後夜祭 (15日)みこし(御輿)のねり比べ、七泰会、植村会 (12日)加茂神社例祭(福武祭)、秋季弁天祭り、神拝荒神祭、橘新宮神社、御所明神まつりなどをアップしていく予定です。

御旅所(お旅所)前での福武新田だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その7 大町地区 福武新田・福武天皇だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
■十二番 福武新田屋台(だんじり)
製作年 昭和4年(1929)
彫刻 近藤泰山 40年に鈴木泉石が彫かえしている。
大工 河野広一
素木の三階で、彫物の図柄は「義経弓流し」、水引幕は赤地に金糸の源氏車紋です。
*屋台の情報については、「山車・だんじり悉皆調査」さまより、引用させていただきました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/ehime-touyo.htm

御旅所(お旅所)前での福武新田だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その7 大町地区 福武新田・福武天皇だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

御旅所(お旅所)前での福武新田だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その7 大町地区 福武新田・福武天皇だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

御旅所(お旅所)前での福武天皇だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その7 大町地区 福武新田・福武天皇だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
■十三番 福武天皇屋台(だんじり)
製作年 昭和4年
彫刻 近藤泰山
大工 石川甚助
黒塗りの三階で、彫物の図柄は「牛若弁慶」など、水引幕は赤地に金糸の源氏車紋が2つです。
*屋台の情報については、「山車・だんじり悉皆調査」さまより、引用させていただきました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/ehime-touyo.htm

御旅所(お旅所)前での福武天皇だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その7 大町地区 福武新田・福武天皇だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

御旅所(お旅所)前での福武天皇だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その7 大町地区 福武新田・福武天皇だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

御旅所(お旅所)前での福武天皇だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その7 大町地区 福武新田・福武天皇だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
■私の撮影した2008年(平成20年)の伊曽乃神社祭礼御旅所の写真は、右側のリンクの「2008 伊曽乃神社祭礼御旅所」をクリックして順次ご覧ください。

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●お祭り豆知識●●屋島の戦い福武新田だんじり(屋台)の彫物図柄になっている「義経弓流し」についての豆知識です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現高松市)で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。
屋島の古戦場
戦争:治承・寿永の乱
年月日:元暦2年/寿永4年2月19日(1185年3月22日)
場所:讃岐国屋島(現高松市)
結果:源氏軍の勝利
交戦勢力
源氏 平氏
指揮官
源義経 平宗盛
治承・寿永の乱
以仁王の挙兵 - 石橋山 - 波志田山 - 衣笠城 - 市原 - 鉢田 - 富士川 - 金砂城 - 鎮西反乱 - 美濃源氏の挙兵 - 近江攻防 - 南都 - 菜切 - 墨俣川 - 伊予河野氏の蜂起 - 横田河原 - 養和の北陸出兵 - 野木宮 - 火打城 - 般若野 - 倶利伽羅峠 - 志保山 - 篠原 - 竹野城 - 福隆寺畷 - 水島 - 室山 - 法住寺 - 宇治川 - 粟津 - 下津井 - 沼田城 - 三草山 - 一ノ谷 - 三日平氏 - 藤戸 - 葦屋浦 - 屋島 - 志度 - 壇ノ浦
背景
寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れたが、在地の武士たちが抵抗してここからも追われてしまった。平氏はしばらく船で流浪していたが、阿波国の田口成良に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた。
寿永3年(1184年)1月20日、鎌倉の源頼朝と義仲の抗争が起き、義仲は滅びた(宇治川の戦い)。その間に平氏は勢力を立て直して、摂津国福原まで進出するが、頼朝の弟の範頼・義経に攻められて大敗を喫した(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は一門の多くを失う大打撃を蒙った。
平氏は屋島に内裏を置いて本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。平氏はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。一方の鎌倉方は水軍を保有しておらず休戦が続いた。
後白河法皇は三種の神器の返還と源平の和平を打診させる使者を平宗盛へ送るが、宗盛はこれを拒否した。
一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官として京に留まった。頼朝は後白河法皇に義経を総大将として平氏を討伐したい旨の意見を奏請した。
同年6月、頼朝は朝廷に奏上して範頼を三河守、一族の源広綱を駿河守、平賀義信を武蔵守に任官させた。一ノ谷の戦いで最大の殊勲を上げた義経は任官から外されており、これは古来、頼朝が義経の軍事的天才を警戒したとも、義経の忠誠心を試したとも言われている。
同年7月、後白河法皇は安徳天皇を廃し、その弟の尊成親王を三種の神器がないまま即位させた。後鳥羽天皇である。これにより、朝廷と平氏は完全に決裂した。
範頼の山陽道・九州遠征
同年7月、頼朝は先に後白河法皇に意見奏請した義経ではなく、範頼に平氏討伐を命じた。山陽道を進撃して九州に渡り平氏の背後を遮断する作戦である。同年8月7日、範頼率いる和田義盛、足利義兼、北条義時ら1000騎が鎌倉を出立した。
不満に感じていたであろう義経を後白河法皇は8月に検非違使尉に任じた。御家人が頼朝の許可無く任官することは禁じられており、頼朝は激怒して、義経を平氏討伐から外してしまう。
8月27日に範頼は入京して追討使に任じられ、9月1日に3万余騎をもって、京を発し九州へ向かった。
山陽道を進む範頼軍は10月には安芸国に達し、12月には備中国藤戸の戦いで平行盛の軍を撃破している。だが、範頼の遠征軍は長く伸びた戦線を平氏軍に脅かされ兵糧の調達に窮し、関門海峡を知盛に押さえられており、船もないため九州にも渡れず進撃が止まってしまった。いったんは長門国まで進出するが、兵糧が尽きて周防国へ後退している。範頼は窮状を訴える書状を次々と鎌倉に送っている。侍所別当の和田義盛ですら鎌倉へ密に帰ろうとする事態になり、範頼軍の将兵の間では厭戦気分が広まり全軍崩壊の危機に陥った。思わしくない戦況に鎌倉の頼朝は焦燥した。
一方、京に留まっていた義経は後白河法皇に引き立てられ、9月には従五位下に昇り、10月には昇殿を許されている。義経は後白河法皇との結びつきを強め、頼朝にとって危険な存在となってきた。
元暦2年(1185年)1月に範頼は豊後国と周防国の豪族から兵糧と兵船を調達して、ようやく豊後国へ渡ることに成功。2月1日、範頼は豊後国芦屋浦で平氏方の原田種直を破る。範頼は背後から彦島の知盛を衝くことを企図するが兵船が不足して実行できなかった。
この範頼の捷報は鎌倉に達しておらず、頼朝は、やむなく義経に屋島攻撃の命令を出した。義経の用兵の才に頼らざる得なくなったのである。
合戦の経過
出港準備と逆櫓論争
2月、義経は摂津国の水軍渡辺党と熊野別当湛増の熊野水軍そして河野通信の伊予水軍を味方につけて、摂津国渡邊津に兵を集めた。
出航直前の2月16日に後白河法皇の使者高階泰経が渡辺津に来て、義経に「大将が先陣となることはない」と京へ戻るよう法皇の意を伝えている。これに対して義経は「自分には存念があり、先陣となって討ち死にする覚悟があります。」と決意を述べている。
『平家物語』によれば、渡邊津を出航するにあたり義経は戦奉行の梶原景時と軍議を持ち、景時は船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案した。しかし、義経は「そのようなものを付ければ兵は退きたがり、不利になる」と反対する。景時は「進むのみを知って、退くことを知らぬは猪武者である」と言い放ち、義経は「初めから逃げ支度をして勝てるものか、わたしは猪武者で結構である」と言い返した。逆櫓論争である。景時は深く遺恨を持ち、後の頼朝への讒言となり、義経の没落につながったとされる。
奇襲
2月18日午前2時、暴風雨のために景時は出航を見合わせようとするが、義経は僅か5艘150騎で出航する。同日午前6時に義経の船団は暴風雨をつき通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦に到着した。
『吾妻鏡』に「丑の刻(午前2時)に船5艘で出発し、卯の刻(午前6時)椿浦浜に着く(通常は三日の行程)」と記されている。4時間で到着したことになるが、これは『吾妻鏡』が出発日または到着日を1日間違え、実際には1日と4時間の航行時間だったという見方が有力である。なお、かつて大阪南港-徳島港間を運行していたフェリー(徳島阪神フェリー)の所要時間は3時間30分であった。
勝浦に上陸した義経は在地の武士近藤親家を味方につけ、屋島の平氏は、田口成直(田口成良の子)が3000騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、1000騎程しか残っておらず、それも阿波国、讃岐国各地の津(港)に100騎、50騎と配しており、屋島は手薄であるとの情報を手に入れ、好機と判断した。
まず、義経は平氏方の豪族桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破る。その後、徹夜で讃岐国へ進撃して翌2月19日に屋島の対岸に至った。
この頃の屋島は独立した島になっていた(江戸時代の新田開発により陸続きに近くなった。ただ、今なお相引川によって隔てられている)。干潮時には騎馬で島へ渡れることを知った義経は強襲を決意。寡兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。
扇の的と弓流し
やがて、源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、郎党の佐藤継信が義経の盾となり平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。継信の墓は庵治半島側の牟礼町洲崎寺に、また激戦の中で継信弟の忠信に射られて討ち死にした平教経童の菊王丸の墓は屋島東町檀ノ浦にある。 なお『吾妻鏡』によれば、教経は屋島の戦い以前に、一ノ谷の戦いで討ち死にしている。
夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の住人那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。
与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、扇は空を舞い、海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。
これを見ていた船上の平氏の武者が誉めそやして踊るが、義経はこれを射るように命じ、与一はこの武者も射殺してしまった。怒った平氏は再び攻めかかる。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。
2月21日、平氏軍は志度浦から上陸を試みるが、義経は80騎を率いてこれを撃退した。『平家物語』には、この時、僅か15騎を率いた義経の郎党の伊勢義盛が田内成直の3000騎を降伏させたという話がある。
やがて、渡邊津から出航した梶原景時が率いる鎌倉方の大軍が迫り、平氏は彦島へ退いた。
戦後
屋島の陥落により、平氏は四国における拠点を失った。既に九州は範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立してしまう。義経は水軍を編成して、最後の決戦である壇ノ浦の戦いに臨むことになる。
近年の研究
菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書「源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像― 」(角川選書、2005年)で、この合戦について以下の説を述べている。
思わしくない戦況に、頼朝は義経へ屋島攻撃の命令を出した。義経は畿内の海運関係者である淀江内忠俊と、摂津源氏と関係の深い水軍・渡辺党を取り込み、文治元年(1185年)1月、渡辺党の本拠地・渡邊津へと赴き、1ヶ月間、兵糧の集積と兵船の準備を進めた。
義経渡海以前、紀伊水道を取り囲む紀伊・淡路・讃岐・阿波では反平家分子が生じており、源為義の末子という加茂冠者義嗣・淡路冠者義久なる二名の人物を担いで挙兵している。結局、平教経ら平家方に鎮圧されたが(六ヶ度の戦い)、反平家勢力の糾合のためには、源氏の棟梁格の人物が必要とされていたことを示している。そこで義経は、阿波の反平家勢力と連絡を取り、自らは少数で阿波へ渡り兵を集めつつ迂回して陸上から攻め、梶原景時は大規模な水軍を擁して海上から攻撃するという作戦を立てた。
2月、義経は阿波へ渡海し、近藤親家の案内によって桜間を攻めた。桜間は平家最大与党・阿波民部大夫の近親者である桜庭能遠の城で、阿波国衙に隣接する平家方の重要拠点であった。この攻撃により、平家は海に孤立する島以外の拠点を失った。その後、義経軍は屋島も攻め落とした。景時率いる主力の水軍は、風雨によって到着が遅れた。
2月19日、平氏軍は志度浦から上陸を試みるが鎌倉方に撃退される。
3月16日、屋島の西の島、讃岐国塩飽庄にいた平家軍を、海上から景時軍が、陸上から義経軍が攻撃し、平家は100艘余りで安芸国厳島に退いた。
関連項目
* 全国平家会
* 宇佐神宮
* 日本史の出来事一覧
* 日本の合戦一覧
* 逆櫓の松
* 八島 (能)
参考文献
* 菱沼一憲 『源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像』 角川選書、2005年。
●武蔵坊弁慶福武天皇だんじり(屋台)の彫物図柄になっている「牛若弁慶」についての豆知識です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E6%85%B6
武蔵坊弁慶(武藏坊辨慶、むさしぼうべんけい、生年不詳- 文治5年閏4月30日(1189年6月15日))は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。
五条の大橋で源義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。熊野別当湛増の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。なお、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。
元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えた。『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11月3日に「辨慶法師已下相從」11月6日に「相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨慶」と記されているだけで、その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。
生涯
熊野別当湛増(『義経記』では「弁しょう」、『弁慶物語』では弁心)が、二位大納言の姫を強奪して生ませたとされる。母の胎内に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いて、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられた。
鬼若は比叡山に入れられるが、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも乱暴を繰り返して、播磨の書写山圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。
やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと悲願を立てる。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本ということろで、五条大橋(『義経記』では清水観音境内)で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。しかしこの決闘は後世の伝説で、当時、五条の大橋はまだなかったとされている。 決闘の場所も、義経記では、五条の大橋ではなく、堀川小路から清水寺での出来事とされている。また現「松原通」が当時の「五条通り」であり、旧五条通西洞院に五条天神社が存在し、そこに架かる橋であったとも言われている。決闘の場所を五条の大橋とするのは、明治の伽噺作家の巌谷小波(いわやさざなみ)の書いた「日本昔噺」によるもので、『尋常小学唱歌』の「牛若丸」もこれにしたがっている。[1]
その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てる。兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行。山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。
一行は加賀国安宅の関で、富樫左衛門(『義経記』では富樫介)に見咎められる。弁慶は偽の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの金剛杖で打ち据える。富樫は弁慶の嘘を見破りながら、その心情を思い、あえて騙された振りをしてくれ、義経一行は無事に関を越える。
義経一行は、奥州にたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せる。だが、秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡は頼朝の威を恐れて、父の遺言を破り、義経主従を衣川館に襲った。多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだとされている。いわゆる「弁慶の立往生」である。死してもなお、義経を守りつづけたと言えるこの往生は、史上屈指の名往生とされる。
以上は、『義経記』を中心とした後世の物語を基にしたもので、史実の弁慶については、『吾妻鏡』文治元年の条で都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名がある以外は、ほとんど明らかではない。
史料である『吾妻鏡』や『玉葉』によると、都落ちの後、周辺に潜伏する義経を比叡山の悪僧(僧兵)らが庇護しており、その中の俊章(しゅんしょう)という僧は義経を奥州まで案内したとされる。また文治5年(1189年)1月13日には、義経が京都に還る意志を書いた手紙を持った比叡山の悪僧・千光房七郎が北条時定に捕まっている。この千光房は前年8月に悪徒浪人を集めて悪行を働くというので、お尋ね者になっていた僧侶である。これら義経を庇護した複数の比叡山悪僧の所業が集められ、誇張されていって伝説上の武蔵坊弁慶が構成されたとみられる。
岩手県平泉町に弁慶の墓と伝わるものがある。
なお、義経主従は衣川館では死なず、平泉を脱出して現在の青森県や北海道へ逃れたとする、いわゆる「義経北行伝説」にも、弁慶に関するエピソードは数多く登場する。
能・歌舞伎
弁慶は猿楽・能の『安宅』やそれを歌舞伎化した『勧進帳』でも主役を張っている。義経が頼朝と不仲になり、都落ちして奥州藤原氏のもとに身をよせることになった途上、義経一行は山伏に扮して安宅の関を越えようとした。ところが一行は関守の富樫に見咎められ、「勧進帳を出せ」と言われた。もとより一行はそのようなものを持っていなかったが、弁慶は機転を利かせ、もともと寺で修行経験もあったことも幸いして持ち合わせの巻物を広げ、朗朗と読み上げていく。この機転によって無事関を越えれられそうにはなったのだが、「一行の中に常に傘で顔を覆っていて不自然な行動をする者が義経に非常に似ている」と富樫の部下が言い出したため、なおいっそう疑われてしまう。だが、そこでも弁慶は機転を利かせ今度は手に持っていた杖で「お前が義経に似ているために、あらぬ疑いをかけられてしまったではないか!」とののしりながら主君である義経を何度も何度も殴った。『いくらなんでも杖で主君をぶつ者はこの世にいるはずが無い』と関の者たちにそう思わせることに成功し、一行は無事に関を越えることが出来た。そして弁慶は、無事関を越えられた後、主を殴った事について義経に泣きながら謝った。という筋である。
義経の西国落ちの道程を扱った『船弁慶』という猿楽・能にもなっている。また、義経を主人公とした「義経千本桜」などの歌舞伎にも、主要人物の一人として登場する。
ゆかりと伝えられるもの
弁慶石(京都府京都市)
中京区三条通麩屋町東入(御幸町との間)の歩道脇にある石。男の子が触ると力持ちになる等という言い伝えがある。この他にも7つ、全国で8つ弁慶岩と呼ばれるものが存在する。すべて弁慶が平泉に渡る旅路にあり、弁慶が運んだ、弁慶が座った、弁慶が刀で切ったなどの伝承がそれぞれに残っている。
弁慶の鏡池(兵庫県・圓教寺)
いたずら書きをされた顔を映して、激怒したといわれる。
弁慶のお手玉石(兵庫県・圓教寺)
丸みのある岩で、お手玉代わりに投げたとされる。
弁慶の土俵跡(北海道寿都町)
アイヌの力自慢と相撲を取ったとされる。
弁慶七戻り(茨城県・筑波山)
弁慶ですら恐怖のあまり7度後戻りしたと伝えられる。
弁慶に因むことば
弁慶は古くから豪傑の代名詞として用いられており、それに因んだ様々なことばがある。
月岡芳年「芳年武者无類」義経と弁慶
弁慶の立ち往生
義経が兄源頼朝に追われて、藤原泰衡に衣川の館を攻められた際、弁慶は並み居る敵兵を次々倒すが、ついには無数の矢を受けて仁王立ちのまま息絶えたと伝えられている。進退窮まることの喩え。なお、この立ち往生については医学的見地から様々な議論がなされている。法医学の立場からは、著しい肉体疲労や即死時のショックからくる即時性死後硬直ではないかと考察されているが、あり得ないとする意見もあり、真偽は定かではない。
主君を守るために奮戦し大量に矢を射られ直立不動で死ぬという点で、三国志演義における典韋の死に様と酷似している。
弁慶の泣き所
向こう脛は、皮膚のすぐ下、骨(脛骨)のすぐ上を神経が通っているため、非常に痛みの強い急所であり、弁慶ほどの豪傑でもここを打てば涙を流すほど痛いとされる。「アキレス腱」とともに急所の代名詞としても用いられる。また、中指の第一関節から先の部分も弁慶の泣き所と呼ばれている。これは、指の第一関節を伸ばしたまま第二関節だけを曲げると第一関節に力が入らなくなることから、「あの強力無双の弁慶ですら力を入れる事ができない泣き所」くらいの意味でこう呼ばれる。
弁慶の七つ道具
弁慶が持っていたと伝えられる七種の武器。薙刀、鉄の熊手、大槌、さすまたなどがある(弁慶の話と七つ道具参照)。転じて、「選挙の七つ道具」(選挙時に必要とされる、標札や腕章など)、「探偵の七つ道具」のような使われ方をされる。因みに、弁慶の薙刀の銘は『岩融』(いわとおし)と伝わっている。作者は不明だが、三条宗近だとも。
内弁慶、外地蔵
単に「内弁慶」とも。家の中では強気になって威張り散らすが、外では意気地が無くおとなしい人間のこと。引きこもりの家庭内暴力など芳しくない喩えが多い。ここから派生して、インターネット上でのみ威勢がいい人間を「ネット弁慶」と呼ぶ事もある。また、普段、自分の家や勤務先では大人しいが、旅行先、買物先などで自分が客の立場になると急に威張りだすような場合を「外弁慶」と呼ぶ。
弁慶ぎなた式
「ぎなた読み」とも。「弁慶が薙刀を持って刺し殺した」という文を「弁慶がな、ぎなたを持ってさ、し殺した」と区切りを間違えて読むこと。句読点の付け方(または息継ぎ)を変えると文章の意味も変わるということを示す例。「ここではきものをぬいでください」も同様。
弁慶に因む名前
弁慶蟹
ベンケイガニ。海に近い河口域に住む小型のカニ。名前の由来は、甲羅の模様が弁慶の形相を連想させるからと言われる。戦に敗れ海に沈んだ平氏を連想させるヘイケガニに対抗してのものか。
弁慶縞
紺色と茶色や浅黄色など、二色の色糸を格子状に碁盤の目のように織った文様。縦横の縞が交差するところは色が重なって濃くなっている。弁慶と名づけられた由来は不詳。
弁慶草
ベンケイソウ。別名イキクサ。分厚い葉と群をなす淡紅色の小花が特色の多年草。由来は、切っても相当長いこと生きる生命力の強さを弁慶に喩えたものか。
辨慶號
北海道の官営幌内鉄道で使用されたアメリカ製のテンダー型蒸気機関車の第2号機に付けられた愛称。国鉄7100形蒸気機関車として鉄道博物館に保存。
弁慶岬
寿都町の寿都湾西口にある。
関連項目
* 生誕伝説
o 武蔵坊弁慶生誕伝説
* 能・歌舞伎
o 舟弁慶(能)作者:観世信光 成立-室町時代
o 安宅(能)作者:観世信光か? 成立-室町時代
o 勧進帳(歌舞伎)作者:並木五瓶(ごへい) 成立-天保11年(1840)
* 映画
o 『虎の尾を踏む男達』(1945年、監督:黒澤明、弁慶:大河内伝次郎)
o 『新・平家物語 静と義経』(1956年、監督:島耕二、弁慶:浜口喜博)
o 『五条霊戦記 GOJOE』(2000年、監督:石井聰亙、弁慶:隆大介)
* テレビドラマ
o 『源義経』(1966年、NHK大河ドラマ、弁慶:緒形拳)
o 『新・平家物語』(1972年、NHK大河ドラマ、弁慶:佐藤允)
o 『武蔵坊弁慶』(1986年、NHK新大型時代劇、弁慶:中村吉右衛門)
o 『源義経』(1990年、TBS、弁慶:松方弘樹)
o 『源義経』(1991年、日本テレビ、弁慶:里見浩太朗)
o 『炎立つ』(1992年、NHK大河ドラマ、弁慶:時任三郎)
o 『弁慶』(2004年、テレビ東京、弁慶:うじきつよし)
o 『義経』(2005年、NHK大河ドラマ、弁慶:松平健)
* 小説(近代)
o 『君の名残を』(2004年、浅倉卓弥の小説、宝島社刊)
* ゲーム
o 『源平討魔伝』(1986年 弁慶:声:音声合成)
o 『弁慶外伝 沙の章』
o 『弁慶外伝 〔PCエンジン版〕』
o 『少女義経伝』(2003年 武蔵坊弁慶:声:室園丈裕)
o 『義経紀』(2005年 バンプレスト)
o 『NAMCO x CAPCOM〜ナムコ・クロス・カプコン』(2005年 武蔵坊弁慶:声:郷里大輔)
o 『GENJI』(2005年 武蔵坊弁慶:声:大塚明夫)
o 『義経英雄伝・義経英雄伝修羅』(2005年 武蔵坊弁慶:声:乃村健次)
o 『遙かなる時空の中で3』(2004年 武蔵坊弁慶:声:宮田幸季)
o 『遙かなる時空の中で3十六夜記』(2005年 武蔵坊弁慶:声:宮田幸季)
o 『遙かなる時空の中で3運命の迷宮(ラビリンス)』(2006年 武蔵坊弁慶:声:宮田幸季)
o 『星の王女〜宇宙意識に目覚めた義経〜』(美蕾 Windows 2006年 武蔵坊弁慶:声:先割れスプーン)
o 『大神』(2006年 ベンケイ)
* その他
o 弁慶塚
o ネット弁慶
外部リンク
* 紀州弁慶伝説保存会
* 弁慶と義経
* 田辺市の弁慶祭