
■2008年撮影のお祭り写真を現在アップ中です(^^♪
■現地で「掲載します」とお約束した皆様、あと少しお待ちくださいね。
■今後、掲載予定の秋祭りなど
(23日)伊予三島秋祭り三島地区夜太鼓統一運行 駅前通り〜中央本通り〜三島神社
(22日)伊予三島秋祭り三島地区統一運行(伊予銀行前)、寒川・豊岡地区統一寄せ
(19日)新居浜太鼓祭り船御幸、綾延神社殿中奴
(17日)新居浜太鼓祭り上部統一かき比べ
(16日)伊曽乃神社お旅所の続き、西条駅前等での後夜祭
(15日)みこし(御輿)のねり比べ、植村会
(15日)石岡神社お旅所内外・宮入り、丹原町統一かきくらべ
(14日)石岡神社本殿祭、土居太鼓まつりかき比べ等の続き
(13日)高尾神社秋祭り、氷見新町屋台改修記念式
(12日)加茂神社例祭(福武祭)、秋季弁天祭り、神拝荒神祭、橘新宮神社
(12日)御所明神まつり、磐根神社毛槍投げ奴、嘉母神社祭礼宮出し・難波
(11日)東予秋祭り統一運行、パルティ・フジ東予店前かきくらべ
(11日)保内八幡神社秋季大祭、三津屋子供太鼓台・だんじり
などを順次アップします ■掲載完了の秋祭りなど ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 御旅所」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 御殿前」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 川入り・宮入り」などはここから ●
「2008 伊曽乃神社祭礼 宮出し」などはここから ●
「2008 七泰会、伊曽乃川人会・御所神社祭り・下喜多川御輿十周年、日明格納庫
中西御輿改修、四国の祭りなど」はここから ●
「2008 新居浜太鼓まつり 大江浜かきくらべ、一宮神社かき比べ
西原vs新須賀、阿島vs松神子太鼓台、川東西部かき比べ(国領川河川敷公園)
又野・萩生西太鼓台新調、江口太鼓台、にいはま夏祭り、東田太鼓台新営」はここから ●
「2008 土居太鼓祭り 北野・入野・畑野・飯武・土居本郷太鼓台かき比べ
蕪崎太鼓台新調お披露目」などはここから ●
「2008 飯積神社祭礼 宮出し、渦井川(うずゐがわ)川原・船屋グラウンドかきくらべ、
飯岡本郷太鼓台新調、飯岡八幡太鼓台新営」などはここから ●
「2008 石岡神社例大祭 石岡神社宵祭り(前夜祭)、楢木(楢の木)屋台改修
桜木神社祭礼、高尾神社例大祭(春祭り)」などはここから ●
「2008 禎瑞嘉母神社祭礼 禎瑞高丸・難波・上組子供太鼓台」などはここから ●
「2008 東予秋祭り 壬生川宵祭り(前夜祭)、明理川・本町だんじり」などはここから ●
「2008 小松秋祭り 三嶋神社祭礼宮入り(階段上げ)、石土神社浦安神楽」などはここから ●
「2008 丹原秋祭り 中川ふるさと祭り」などはここから ●
「2008 第27回伊勢音頭フェスティバル」はここから 2008年(平成20年)10月14日、四国中央市土居町中村のJAうま土居中央支店で行われた北野・入野・畑野・飯武・土居本郷太鼓台かき比べでの土居本郷太鼓台です。私が行ったときには、すでにかき比べは終わっていましたので、会場からの出発風景です(汗)。
四国中央市の秋祭り関係の写真は今後も、(23日)伊予三島秋祭り三島地区夜太鼓統一運行 駅前通り〜中央本通り〜三島神社、(22日)伊予三島秋祭り三島地区統一運行(伊予銀行前)、寒川・豊岡地区統一寄せ、(14日)土居太鼓まつりかき比べ等の続きなどをアップしていく予定です。

土居本郷太鼓台
(土居町太鼓祭り) 北野・入野・畑野・飯武・土居本郷太鼓台かき比べ その1 土居本郷太鼓台 四国中央市土居町中村 JAうま土居中央支店 2008.10.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

土居本郷太鼓台
(土居町太鼓祭り) 北野・入野・畑野・飯武・土居本郷太鼓台かき比べ その1 土居本郷太鼓台 四国中央市土居町中村 JAうま土居中央支店 2008.10.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

土居本郷太鼓台
(土居町太鼓祭り) 北野・入野・畑野・飯武・土居本郷太鼓台かき比べ その1 土居本郷太鼓台 四国中央市土居町中村 JAうま土居中央支店 2008.10.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

土居本郷太鼓台
(土居町太鼓祭り) 北野・入野・畑野・飯武・土居本郷太鼓台かき比べ その1 土居本郷太鼓台 四国中央市土居町中村 JAうま土居中央支店 2008.10.14
NIKON D80 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC
■私の撮影した2008年(平成20年)の土居町太鼓祭りの写真は、右側のリンクの「2008 土居町太鼓祭り」をクリックして順次ご覧ください。

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●お祭り豆知識●●加藤清正土居本郷太鼓台の上幕図柄になっている「加藤清正虎退治」についての豆知識です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%B8%85%E6%AD%A3
加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。肥後熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の家臣として仕え、各地を転戦し武功を挙げ肥後北部を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後熊本藩主となった。「賤ヶ岳七本槍」の一人である。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。
加藤清正
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄5年6月24日(1562年7月25日)
死没 慶長16年6月24日(1611年8月2日)
改名 竹松、夜叉若、清正
別名 虎之助、地震加藤(仇名)
戒名 浄池院殿永運日乗大居士
墓所 加藤神社、本妙寺、天澤寺(山形県鶴岡市) 覚林寺
官位 従五位下主計頭、従五位上侍従兼肥後守 従四位下、贈従三位
主君 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
藩 肥後国熊本藩主
氏族 加藤氏
父母 父:加藤五郎助(清忠)、母:伊都
妻 正室:玉目丹波の娘・正応院
継室:水野忠重の娘(徳川家康の養女)・清浄院
側室:菊池武宗の娘・本覚院、浄光院
子 虎之助、忠正、忠広、虎熊、あま(徳川頼宣室) 古屋(榊原康勝室→阿部政澄室)
生涯
秀吉の子飼い
永禄5年(1562年)6月24日、尾張の鍛冶屋加藤五郎助(清忠)の子として、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから血縁関係にあった秀吉に仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。
豊臣家臣時代
天正10年(1582年)に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って同年の山崎の戦いに参加した。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられた。
天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下、主計頭に叙任する。天正14年(1586年)からは秀吉の九州征伐に従い、肥後に入った佐々成政が失政により改易されると肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とした。このとき、肥後半国と讃岐とどちらかを選べと言われ、肥後を選んだという逸話がある。肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。
文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵する。文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置いた。二番隊は一番隊の小西行長とは別路の先鋒であり、4月17日の釜山上陸後は小西行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は小西行長の一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定、朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。更には朝鮮の国境豆満江を越えてオランカイ(兀良哈・現在の中国東北部)へ進攻するなど数々の武功を挙げた。
しかし交渉材料に朝鮮二王子を返還してしまうなど、慶長元年(1596年)、石田三成と明との和睦をめぐって意見の対立が生じ、それが元で秀吉の勘気を受けて一時は京に戻される[1]。
慶長2年(1597年)からの慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。次に忠清道鎮川まで進出後に西生浦倭城?に駐屯した。日本側では西生浦倭城の東方に新たに浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続によって清正が縄張りをした蔚山倭城?を築城し、完成後清正を守備につける予定(西生浦倭城?には黒田長政を駐屯予定)であったが、慶長2年(1597年)12月に完成間近の蔚山倭城への明の大軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。未完成で水も食糧も乏しい状況で明・朝鮮の大軍を防ぎきり、毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いた。慶長3年(1598年)9月にも再び蔚山倭城は攻撃を受けるがこれも撃退に成功する。
清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼(幽霊)上官」と恐れられた。なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残り、そこから虎拳という遊びの元になった。セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。
関ヶ原の戦いから江戸時代
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。
そして慶長4年(1599年)3月に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将と共に三成暗殺未遂事件を起こした。しかし事前に桃山の石田屋敷に逃げ込まれ、暗殺は失敗する。
慶長5年(1600年)に三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いでは九州に留まり、黒田如水と共に家康ら東軍に協力して行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略し、九州の西軍勢力を次々と破った。戦後の論功行賞で、肥後の行長旧領を与えられ52万石の大名となる。なお、行長が居城とした宇土城は慶長17年(1612年)に破却されている。
慶長10年(1605年)、従五位上、侍従・肥後守に叙任される。慶長15年(1610年)、徳川氏による尾張・名古屋城の普請に協力した。慶長16年(1611年)3月には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中の船内で発病し、6月24日に熊本で死去した。享年50(満49歳没)。
墓所は熊本市花園の発星山本妙寺の浄池廟、また山形県鶴岡市丸岡の金峰山天澤寺。さらに東京都港区白金台の最正山覚林寺(清正公)に位牌。なおまた、東京都大田区の長栄山大国院本門寺(池上本門寺)に供養塔。奉斎神社は熊本市本丸鎮座の加藤神社。
清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、寛永9年(1632年)、忠広は幕府の命により改易になった。理由は諸説あるが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だったためと警戒されたとも言われている。
人物
清正の重臣・大木舎人が写生し、文久年間にさらに模写されたという肖像
清正は一般に智勇兼備の名将として知られているが、同時に藤堂高虎と並ぶ築城の名手としても知られ熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。また飯田覚兵衛、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。この結果、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年後の現在も実用として使われている遺構も少なくない。このとき清正は莫大な人手をまかなうため男女の別なく動員したが、給金を払い必要以上の労役を課すことなく、事業の多くを農閑期に行う事によって農事に割く時間を確保したという。
清正は熱心な日蓮宗の信徒でもあり、領内に本妙寺をはじめとする日蓮宗の寺を数多く創設した。そのほか、いわゆる「三振法(清正当時の呼称ではない)」を取り入れたことで知られる。これは武士のみが対象であったが、軽微な罪や式典で粗相を3回起こすと切腹を申し付けられるものであった。
武将としては福島正則とともに豊臣氏配下の最有力の武将の一人で、正則とは親しかったとされる。石田三成とは豊臣政権下で文治派、武断派が形成されるにつれて関係が悪化し、小西行長とは朝鮮出兵の際に先鋒をめぐって争ったことや互いの領地が隣り合わせであったため常に境界線をめぐって争ったとも言われている。
体格は非常に大きく、6尺3寸(約191cm)の大男だったと言われている。だが実は5尺3寸(約161cm)にも満たない身長であったが、かぶる兜を長くして全体像を高く見せる事によって相手に威圧感を与えようとしていたという説もある。
熊本県(旧熊本藩)においては、「清正公(せいしょこ)さん」として現在も種々の史跡や祭りなどにも取りあげられている。
清正の熊本での事業
清正が肥後を治めていたのは、天正15年(1587年)から慶長16年(1611年)の期間だが、朝鮮出兵等もあって実際に熊本に腰を据えていた期間は実質延べ15年程である。清正は「清正公(せいしょこ)さん」として慕われ、後に熊本藩を治めた細川氏が当時の清正人気に遠慮する程であったという。
清正以前の熊本藩は有力大名が現われず国人が割拠する時代が続き、佐々成政でさえも収拾できず荒廃していた。そんな中、清正は得意とする治水等の土木技術による生産量の増強を推し進めた。これらは主に農閑期に進められている。
* 「隈本(隅本とも)」という地名を「熊本」と改名した人は清正である。
* 「白川・坪井川大改修」以前は白川と坪井川は現在の熊本市役所付近で合流していたが、石塘を造り現在の流路に変更。
* 熊本4大河川改修。菊池川の付替、緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遥拝堰、白川に於ける各種改修等。
* 熊本平野・八代平野の干拓と堤防の整備。
* 白川水系の主に熊本平野への灌漑事業に於ける、非常に実験的な用水技術(馬場楠井手等)。
なお、現在の堀川は加藤忠広が着工し、細川忠利で完了。白川と坪井川を結ぶ農業用水路である。
清正の忠義
慶長16年(1611年)、豊臣秀頼が二条城で徳川家康と会見したとき、清正は浅野幸長と共に一命をかけて秀頼を守護するため、密かに懐中に短刀を忍ばせていたという。秀頼が暗殺されそうになれば、家康と刺し違えるつもりだったといわれている[2]。
逸話
* 口の中に拳を入れる事ができたという逸話がある。その話を聞いた新選組局長・近藤勇も憧れていた清正にあやかり、真似をして拳を口に入れていたという。
* 平時でも常に腰に米3升と味噌、銀銭300文を入れていた。ある時親友の福島正則が「それでは腰が重いだろうが」と述べると、「わしだって軽くしたい。だが、わしがこうしていれば家臣も見習い、常に戦時の備えを怠らないだろう」と答えたという。また、平時に腰兵糧をつけるのを忘れた小姓を怠慢であるとして免職にしたという。
* 清正は朝鮮出兵で三成と対立し、それが原因で秀吉から京に召還された後、伏見に蟄居させられていた。しかし慶長元年(1596年)、伏見大地震が起こって秀吉がいた伏見城が倒壊したとき、清正は300人の手勢を率いていち早く秀吉のもとに駆けつけ、警護を務めたと言われている。蟄居身分でありながら、これは秀吉の許しもなく駆けつけたものであり一つ間違えれば切腹となるところだったが、秀吉は清正の忠義を賞賛して朝鮮での罪を許したという。これにより、清正は「地震加藤」と称された。
* 清正は豊臣氏への忠義を終生忘れなかったが、家康を恐れその天下も認めていた。朋友の正則が家康の子・徳川義直が入る尾張名古屋城の普請を命じられたとき、「大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼしたのに対して清正は「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」と告げたという。
* 徳川時代になって戦国の気風が謀反の心として警戒されるようになり、大名たちが髭を剃ることが流行りだしたとき貴殿もそられてはいかがかと進められたのに対して「鎧の頬あてに髭があたる感覚が心地よいので」と断ったことから、骨のある武将との評判がたった。
* 晩年は豊臣家への恩義と自家の徳川政権での存続に心を悩ませた。そのためか、論語に朱で書き込みをして読み込むほどであった。徳川と豊臣の雲行きが怪しいなか、大阪からの船旅の中、清正の飼っていた猿が真似をして彼の論語の本に朱筆で落書きをしたのを見て「お前も聖人の教えが知りたいか」と嘆じたという。
* 清正が肥後北部24万石を治めていた頃、小西行長の領地の天草で豪族の反乱が起きた。その援軍に向かった時、反乱軍でも武勇知られた木山弾正という豪傑と一騎打ちになった。相手は弓の使い手で、矢を射ようとしたために清正は「一騎打ちなれば、正々堂々打ち物(太刀)で勝負」と声を掛けて、手にしていた槍をその場で投げ捨てた。これを見た弾正も弓を捨てたところ、清正はすかさず槍を拾いあげて突きかかり、討ち取ったという[3]。
* 同じくこの反乱の際、反乱勢の籠もる志岐城に和平の使者を送り、志岐城側が出迎えの衆を寄越すと、これに突然襲い掛かって皆殺しにし、してやったりとして陣を敷いたという[3]。
* 木山弾正の遺児は横手五郎と名乗り怪力が自慢であったが、熊本城築城の人夫となり敵討ちの機会をねらっていた。しかし、これに気付いた清正によって城内の井戸の中の作業をしているときに石・砂を投げ込まれ生き埋めにされたという。彼が運んだと伝わる「首掛け石」という凹型の巨石が城内にある。
死因
清正の死因は『当代記』によれば腎虚(花柳病)とされているが、唐瘡(梅毒)説や家康またはその一派による毒殺説もある。また清正の死から2年後の慶長18年(1613年)、豊臣氏恩顧の最有力大名であった浅野幸長も同じく花柳病で死去している。清正・幸長の両名は豊臣氏恩顧の有力大名として家康から警戒されていたのは事実であり、その両名が同じ病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測も流れた。
また死因は瘡(癩病、ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正を祀る加藤神社に平癒を願う参詣者が多かったという。ちなみに熊本市の本妙寺は明治20年代まで梅毒やハンセン病で不具になってしまった患者達で混雑する事が珍しくなかった。参拝客達に哀れみを乞い、この寺に墓がある清正を一種の神と崇め、病を治して貰おうという信仰があったからである。日本のハンセン病の歴史において大きな足跡を残した一人、イギリス国教会の婦人伝道師だったハンナ・リデルはこの寺で見た患者達の群を見て甚大なショックを受け、その生涯を彼らの救済に傾けた。
手話単語のモチーフとして
日本手話における「加藤」の手話単語の一つに「両手で槍を持って前に突き出す」動作を真似たものがあるが、これは加藤清正の虎退治の古事にちなんだものと言われる(他に指文字「か」+植物の藤を表す手話単語を用いる場合や、タレントの加藤茶にちなんでつけ髭を指で真似る手話単語など)。
家臣団
加藤清正十六将
* 飯田覚兵衛 - 日本槍柱七本、加藤三傑。
* 森本儀太夫 - 加藤三傑。
* 庄林隼人 - 加藤三傑。
* 加藤清兵衛安政 - 絵本太閤記によると、朝鮮出兵で、蔚山倭城に押し寄せた明の大軍を鉄砲で撃退する、智勇兼備。
* 加藤興右衛門重次
* 加藤右馬允可重 - 内牧城代
* 鵤平次
* 龍造寺又八
* 貴田孫兵衛統治 - 前名は毛谷村六助。
* 吉村吉左衛門
* 山内甚三郎
* 九鬼四郎兵衛広隆 - 九鬼嘉隆の甥。
* 天野助左衛門
* 木村又蔵
* 斎藤主水利宗 - 斎藤利三の子。
* 赤星太郎兵衛親武
その他
* 加藤正方
* 森本右近太夫一房
* 小野鎮幸(小野和泉) - 旧立花氏重臣。日本槍柱七本。加藤家家中で、飯田覚兵衛、庄林隼人、森本義太夫、加藤清兵衛と並ぶ武功を誇る。
* 加藤美作守正次
* 加藤喜左衛門
* 大木兼能
脚注
1. ^ 一説に三成が清正の功績を本人の報告と食い違うように過少に讒言したためともされる。
2. ^ 「清正、御暇給はりて我が家に帰り、懐よりちいさき刀取り出し、鞘より抜きて押し戴き、頻りに涙を流しつつ、太閤の御恩報い参らする事、今日既におわんぬ、と独語いひけるとなり」(『藩翰譜』)。
3. ^ a b 出典:『清正記』
清正が登場する著書・作品
* 「城取りの家」(南原幹雄、角川書店)
* 「加藤清正」(佐竹申伍、PHP研究所)
* 「加藤清正」(海音寺潮五郎、文藝春秋)
* 「へうげもの」(山田芳裕、講談社)
* 「火の国の城」(池波正太郎、文藝春秋)
* 「あずみ」(小山ゆう、小学館)
関連項目
* 妙行寺 (名古屋市) - 出生地と伝わる。
外部リンク
* 加藤清正家
* 秀吉と清正
* 熊本城公式ホームページ
* 加藤清正と丸岡城跡
●スサノオ土居本郷太鼓台の上幕図柄になっている「素盞鳴尊八岐大蛇退治」についての豆知識です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA
スサノオ(スサノヲ、スサノオノミコト)は、日本神話に登場する1柱の神である。『日本書紀』では素盞嗚尊、素戔嗚尊、『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと、たてはやすさのおのみこと)、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命などと表記する。旧出雲国では久志美氣濃、櫛御食野(くしみけぬ)命とも言い習わしている。牛頭天王と同一視されることも。三貴子の末子に当たる。しかしながら、その与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神、月を神格化した月夜見尊とは少々異なっており、議論の的となっている。
神話での記述
『古事記』によれば、神産みにおいてイザナギが黄泉の国から戻って禊を行った際、鼻をすすいだ時に産まれたとする。『日本書紀』ではイザナギとイザナミの間に産まれたとしている。
イザナギは、天照大神に高天原を、月夜見尊に夜を、スサノオに海原を治めるように言った。『古事記』によれば、スサノオはそれを断り、母神であるイザナミのいる根の国に行くと言い始め、イザナギは怒り近江の多賀に引きこもってしまった。スサノオは根の国へ向う前に姉の天照大神に挨拶をしようと高天原へ行った。天照大神はスサノオが高天原に攻め入って来たのではと考えて武装してスサノオに応対し、スサノオは疑いを解くために誓約を行う。誓約によって潔白であることが証明されたとしてスサノオは高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。そのため、スサノオは高天原を追放されて葦原中国へ降った。
葦原中国にある出雲の鳥髪山(現;船通山)へ降ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣を天照大神に献上した[1]。スサノオは、八岐大蛇に食われることになっていたクシナダヒメを妻として、出雲の須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。そこで 八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を と詠んだ。(「夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微爾夜幣賀岐都久流曾能夜幣賀岐袁」--『古事記』、「夜句茂多菟伊弩毛夜覇餓岐菟磨語昧爾夜覇餓枳都倶盧贈廼夜覇餓岐廻」--『日本書紀』)これは初の和歌とされる。また、ここから「八雲」は出雲を象徴する言葉ともなった。その地で大国主命などを産ませ(『日本書紀』では大已貴神(おおあなむちのかみ)。『古事記』では大国主命はスサノオの6代後の子孫としている)、その後、根の国へ向かったと言う。
『日本書紀』における八岐大蛇の記述がある一書第4では、天から追放されたスサノオは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)[2]に降り、この地吾居ること欲さず「乃興言曰 此地吾不欲居」と言い息子の五十猛神(イソタケル)と共に土船で東に渡り出雲国斐伊川上の鳥上の峰へ到った(「遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)後八岐大蛇を退治した。そのとき五十猛神が天から持ち帰った木々の種を、韓(から、朝鮮)の地には植えず、大八洲(おおやしま、本州のこと)に植えたので、大八州は山の地になったと言う。
また続く一書第5では、木がないと子が困るだろうと言い、体毛を抜いて木に変え、種類ごとに用途を定め、息子の五十猛命、娘の大屋津姫命 、?津姫命 に命じて全国に植えさせたという。
大国主の神話において根の国のスサノオの元にやってきたオオナムヂ(大国主)は、スサノオの娘であるスセリビメに一目惚れするが、スサノオはオオナムヂに様々な試練を与える。オオナムヂはそれを克服し、スサノオはオオナムヂがスセリビメを妻とすることを認め、オオナムヂに大国主という名を贈った。
解説
スサノオの性格は多面的である。母の国へ行きたいと言って泣き叫ぶ子供のような一面があるかと思えば、高天原では凶暴な一面を見せる。出雲へ降りると一転して貴種流離譚の英雄的な性格となる。ヤマタノオロチ退治の英雄譚は優秀な産鉄民を平定した象徴と見る説も根強く、天叢雲剣の取得はその象徴であるとの解釈も多い。しかし、日本初の和歌を詠んだり、木の用途を定めたりなど文化英雄的な側面もある。これは、多数の神が習合してスサノオという神格が創造されたためとする説もあるが、スサノオが成長するにつれて見せる側面であるとする説もある。
神名の「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノオの行いは暴風雨の被害を示すとする)、「進む」と同根で勢いのままに事を行うの意とする説、出雲の須佐郷(現在の島根県出雲市佐田町須佐)に因むとする説(スサノオは須佐郷の族長を神格化したものとする)などがある。
記紀神話においては出雲の神の祖神として書かれているスサノオであるが、『出雲国風土記』ではスサノオはあまり登場せず、意宇郡(おうのこおり)安来郷や飯石郡(いいしのこおり)須佐郷などの地名制定や御子神たちの説話が書かれており、ヤマタノオロチ退治の説話は記載されていない[3]。そのため元々は別の地方の神ではないかとする説もあり、その地として、以下のような説がある。
* 日本書紀の一書でヤマタノオロチ退治が行われたとする備中国とする説
* 大国主がスサノオのいる根の国へ行く前に「木の国」へ行っていること、子のイソタケルが祀られているとしていることなどから紀伊国(熊野)とする説(熊野本宮大社の祭神である家都美御子大神はスサノオのことともされる)
* 日本書紀一書第4のまず新羅の曽尸茂梨に天降ってから出雲の鳥上峯に来たとの記述から、新羅の神とする説
しかし、基本的には記紀、風土記をそれぞれ眺めると出雲との結びつきが強い神といえる[4]。出雲国(現;島根県)東部の奥出雲町にはスサノオが降臨したといわれる鳥髪峰(現;船通山)、それに隣接する安来市はスサノオが地名をつけたという風土記の記述もあり、これらの地域が古代よりたたら製鉄が盛んであったこともあいまって、オロチ退治は製鉄集団を統治したとの見方も強い。また比較神話学的にみると、怪物を倒して鉄や剣を手に入れる神話は国家樹立の比喩であるとする見方もある。スサノオをアマテラスの弟という重要な神とされている理由についても諸説ある。
後に、仏教における祇園精舎の守護神である牛頭天王と習合した。これは、どちらも災疫をもたらす神だからである。このことから、スサノオを祀る神社は祇園神社と呼ばれるようになった。祇園神社の総本社は八坂神社(京都市東山区)、(廣峯神社(兵庫県姫路市)も総本社を名乗っている)、であるが、かつては祗園社という名前であり、明治の神仏分離の際に現在の名前になった。他に氷川神社(さいたま市大宮区など)、津島神社(愛知県津島市)など多くの神社で祀られている。牛頭天王・スサノオに対する信仰を祇園信仰という。
三貴子(サンキシ)と呼ばれるイザナギ最後の子の三神、つまりアマテラス・ツクヨミ・スサノオのうちで、アマテラス=太陽。ツクヨミ=月と解りやすく、また対になっているのに対し、スサノオは海や嵐の神とされる。また、その出生も他の二神が目より生まれるのに対し、スサノオは鼻である。これは、まず太陽と月の二人の姉弟が考え出され、そこにスサノオを加えたとする説が有効である。 スサノオを加えた理由としては、スサノオが出雲の開祖であり、出雲神話系列の神々の始祖であるため、その輪に加えられたという説がある。
主に祭神としている神社
* 祇園神社
o 八坂神社
o 素盞嗚神社(素盞雄神社)
* 熱田神宮
* 廣峯神社(兵庫県姫路市)
* 天王神社
* 天王社
* 津島神社
* 杵築神社
* 氷川神社
* 須賀神社
o 須我神社
* 須佐神社
* 安来神社
* 熊野神社
* 神渕神社
* 八重垣神社
* 本宮彌劔神社(福岡県大牟田市本町4丁目)
* 鶴見神社_(横浜市)
* 原田神社
スサノオをモチーフにした作品
* 祭祀
o 石見神楽 - 「大蛇」
o 出雲神楽 - 「八戸」
* 舞台
o 2004年、『スサノオ』−創国の魁(さきがけ)−宝塚歌劇団雪組
o 2007年、風に成り風に在り−ナノスクエア 主演池上翔馬
* 漫画・アニメ
o 永遠-とわ-かもしれない(赤石路代)
o 「凄ノ王」(永井豪)
o 「暗黒神話」(諸星大二郎)
o 碧奇魂ブルーシード (高田裕三)
o 「仙術超攻殻ORION」(士郎正宗)
o 「天上天下」(大暮維人)
o 「朝霧の巫女」(宇河弘樹)
o 「夢幻伝説 タカマガハラ」(立川恵)どちらかと言えば「天の岩戸」をモチーフにした作品だが、一部に「大蛇退治」をモチーフにした展開がある。
o 「NARUTO」 (岸本斉史)うちはイタチ最後の忍術として登場。
o 「デジモンフロンティア」(本郷あきよし)世界の破壊と再生をつかさどるデジモン、スサノオモンが49話と最終回で登場。
o 「孔雀王」(荻野真)
* テレビドラマ
o 相棒シーズン4 11話 誘拐犯の自称する名前
* 映画
o 日本誕生(出演:三船敏郎, 原節子 監督:稲垣浩)
o 陰陽師II(出演:野村萬斎,伊藤英明 監督:滝田洋二郎)陰陽師を主題としたSF時代劇だが、都に現れる鬼として須佐(スサノオ)が登場する。
* アニメーション映画
o 『わんぱく王子の大蛇退治』1963年、東映動画
* オペラ
o 「素戔嗚」(團伊玖磨)
* 小説
o 「素戔嗚尊」「老いたる素戔鳴尊」(芥川龍之介)
o 「空色勾玉」(荻原規子)
* ゲーム
o 「大神」(CAPCOM)作中のイザナギの自称子孫としてスサノオが登場。
o 「マブラヴ オルタネイティヴ」(アージュ)
注釈
1. ^ ヒッタイトのイルルヤンカシュや古代ギリシアのテューポーンは類似した神話である。
2. ^ ソシモリは「ソウル」のことで、朝鮮語で「都」の意とする説がある。他にも以下に挙げたほか多数の説がある。
*「ソ(牛)シ(の)モリ(頭)」の意で、韓国の牛頭山のこと。これがスサノオが牛頭天王と習合した理由の一つであるとする。この説により江原神社が建てられた。
* 「ソシ(高い柱)モリ(頂上)」の意
※ソウルの語源については諸説ある。また、古代朝鮮語は充分に復元されていないことに注意。
3. ^ 意宇郡母里郷の条には「所造天下大神、大穴持命、越八口平賜而」とあり、この部分を大国主命のヤマタノオロチ退治と解釈する説もある。
4. ^ 大国主とは意宇国主、意宇の国主という官職名で、それがスサノオであってもおかしくはないという解釈もある。
外部リンク
* スサノオの多面的考察
* 日本の神話と古代史と文化 《スサノヲの日本学》
* 祇園神社とスサノオ
* 伝統ある宗教行事や貴重な伝承を失わせた明治の構造改革
* 神々の宴 須佐之男命
* 素盞雄神社HP