お祭り写真集は右側のリンクから
      ■2008年撮影のお祭り写真を現在アップ中です(^^♪
      ■現地で「掲載します」とお約束した皆様、あと少しお待ちくださいね。

      ■今後、掲載予定の秋祭りなど
      (23日)伊予三島秋祭り三島地区夜太鼓統一運行 駅前通り〜中央本通り〜三島神社
      (22日)伊予三島秋祭り三島地区統一運行(伊予銀行前)、寒川・豊岡地区統一寄せ
      (19日)新居浜太鼓祭り船御幸、綾延神社殿中奴
      (17日)新居浜太鼓祭り上部統一かき比べ
      (16日)伊曽乃神社お旅所の続き、西条駅前等での後夜祭
      (15日)みこし(御輿)のねり比べ
      (15日)石岡神社お旅所内外・宮入り、丹原町統一かきくらべ
      (14日)石岡神社本殿祭、土居太鼓まつりかき比べ等の続き
      (13日)高尾神社秋祭り、氷見新町屋台改修記念式
      (12日)加茂神社例祭(福武祭)、秋季弁天祭り、神拝荒神祭、橘新宮神社
      (12日)御所明神まつり、磐根神社毛槍投げ奴、嘉母神社祭礼宮出し・難波
      (11日)東予秋祭り統一運行、パルティ・フジ東予店前かきくらべ
      (11日)保内八幡神社秋季大祭、三津屋子供太鼓台・だんじり
      などを順次アップします


      ■掲載完了の秋祭りなど
      ●「2008 伊曽乃神社祭礼 御旅所」などはここから
      ●「2008 伊曽乃神社祭礼 御殿前」などはここから
      ●「2008 伊曽乃神社祭礼 川入り・宮入り」などはここから
      ●「2008 伊曽乃神社祭礼 宮出し」などはここから
      ●「2008 植村会、七泰会、伊曽乃川人会・御所神社祭り・下喜多川御輿十周年
        日明格納庫、中西御輿改修、四国の祭りなど」はここから

      ●「2008 新居浜太鼓まつり 大江浜かきくらべ、一宮神社かき比べ
        西原vs新須賀、阿島vs松神子太鼓台、川東西部かき比べ(国領川河川敷公園)
        又野・萩生西太鼓台新調、江口太鼓台、にいはま夏祭り、東田太鼓台新営」はここから

      ●「2008 土居太鼓祭り 北野・入野・畑野・飯武・土居本郷太鼓台かき比べ
        蕪崎太鼓台新調お披露目」などはここから

      ●「2008 飯積神社祭礼 宮出し、渦井川(うずゐがわ)川原・船屋グラウンドかきくらべ、
        飯岡本郷太鼓台新調、飯岡八幡太鼓台新営」などはここから

      ●「2008 石岡神社例大祭 新兵衛家躰20周年、石岡神社宵祭り(前夜祭)
        楢木(楢の木)屋台改修、桜木神社祭礼、高尾神社例大祭(春祭り)」などはここから

      ●「2008 禎瑞嘉母神社祭礼 禎瑞高丸・難波・上組子供太鼓台」などはここから
      ●「2008 東予秋祭り 壬生川宵祭り(前夜祭)、明理川・本町だんじり」などはここから
      ●「2008 小松秋祭り 三嶋神社祭礼宮入り(階段上げ)、石土神社浦安神楽」などはここから
      ●「2008 丹原秋祭り 中川ふるさと祭り」などはここから
      ●「2008 第27回伊勢音頭フェスティバル」はここから

 2008年(平成20年)10月16日の御旅所(お旅所)での栄町下組だんじり(屋台)です。

 御旅所では全屋台を撮影しましたが、撮影済みのCF(コンパクトフラッシュ)を1枚紛失し、大町地区の一部のデータをなくしてしまったようです(涙)。他の屋台の差し上げ(さしあげ)中心の写真を、順次アップしていきますね。

 伊曽乃神社祭礼関係の写真は今後も、(16日)伊曽乃神社お旅所の続き、西条駅前等での後夜祭 (15日)みこし(御輿)のねり比べ (12日)加茂神社例祭(福武祭)、秋季弁天祭り、神拝荒神祭、橘新宮神社、御所明神まつりなどをアップしていく予定です。

(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その20 神拝地区 栄町下組だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16

 御旅所(お旅所)前での栄町下組だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その20 神拝地区 栄町下組だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その20 神拝地区 栄町下組だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16

 御旅所(お旅所)前での栄町下組だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その20 神拝地区 栄町下組だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その20 神拝地区 栄町下組だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16

 御旅所(お旅所)前での栄町下組だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その20 神拝地区 栄町下組だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC


(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その20 神拝地区 栄町下組だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16

 御旅所(お旅所)前での栄町下組だんじり(屋台)
(西条祭り2008) 伊曽乃神社祭礼(例大祭、祭り) 御旅所(お旅所) その20 神拝地区 栄町下組だんじり(屋台) 西条市大南 御旅所(お旅所)前にて 2008.10.16
NIKON D300 + SIGMA 18-200mm F3.5-6.3 DC

■私の撮影した2008年(平成20年)の伊曽乃神社祭礼御旅所の写真は、右側のリンクの「2008 伊曽乃神社祭礼御旅所」をクリックして順次ご覧ください。

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●豆知識●

●神武天皇
栄町下組だんじり(屋台)の彫刻図柄になっている「神武天皇」についての豆知識です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

神武天皇(じんむてんのう、庚午年1月1日(紀元前711年2月13日?) - 神武天皇76年[1]3月11日(紀元前585年4月9日?))は、日本の伝説的な初代天皇。在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?) - 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)。

『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かんやまといわれひこのみこと)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、狹野尊(さののみこと)、彦火火出見(ひこほほでみ)と称される。神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したときに付されたとされる。

天皇が即位した年月日は、紀元前660年2月11日にあたるとされる。これにより、2月11日は日本が建国された日として、1873年(明治6年)に祭日(紀元節)と定められた。紀元節は1948年(昭和23年)に廃止されたものの、1967年(昭和42年)には建国記念の日として、祝日とされた。

神武天皇
初代天皇
在位期間:辛酉年1月1日 - 神武天皇76年3月11日
(紀元前660年2月18日? - 紀元前585年4月9日?)
月岡芳年「大日本名将鑑」より「神武天皇」。
明治時代初期の版画。
在位中の皇居 畝傍山橿原宮
別名 神倭伊波礼琵古命
神日本磐余彦尊
始馭天下之天皇
若御毛沼命
狹野尊
彦火火出見
出生 庚午年1月1日
(紀元前711年2月13日?)
死没 神武天皇76年3月11日
(紀元前585年4月9日?)
陵墓 畝傍山東北陵
皇子女
手研耳命
岐須美美命
日子八井命
神八井耳命
綏靖天皇
皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命
父親 彦波瀲武??草葺不合尊
母親 玉依姫命

生涯
以下は主に『日本書紀』に拠った神武天皇の事跡である。内容が神話的であり、神武天皇の実在も含めて現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられていない。『古事記』にも神武天皇の物語があり、大略は同じだが遠征の経路などが若干異なる。『日本書紀』『古事記』の神武天皇の記述は東征が大部分を占めており、詳細は神武東征の項目も参照のこと。

皇子の時代
神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武??草葺不合命の四男(または三男)である。生まれながらにして明達にして、強い意志を持っていた。15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)を妃とし、息子の手研耳命(たぎしみみのみこと)を得た。

『日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘?(179万2470余年。偽書とされる神道五部書のうち『倭姫命世紀』、『神祇譜伝図記』ではニニギは31万8543年、ホオリは63万7892年、ウガヤフキアエズは83万6042年の治世とされ、計は 179万2477年となる。)が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。諸皇子はみなこれに賛成した。

東征の開始
10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て、速吸之門に来た時、国津神の椎根津彦を道案内とした。筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。

筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年滞在して船と兵糧を蓄えた。

長髄彦との戦い

戊午の歳の2月、船団を出して浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。この地を支配する長髄彦が軍衆を集めて孔舎衛坂で戦いになった。戦いに利なく、五瀬命が流れ矢を受けて負傷した。磐余彦は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。

八咫烏の道案内
5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。

名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。

東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。

怒濤の進撃
8月、莵田の地を支配する兄猾(えうかし)と弟猾を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦を暗殺しようとする姦計を告げた。磐余彦は道臣命を送ってこれを討たせた。磐余彦は軽兵を率いて吉野の地を巡り、住人達はみな従った。

9月、磐余彦は高倉山に登ると八十梟帥(やそたける)や兄磯城(えしき)の軍が充満しているのが見えた。磐余彦は深く憎んだ。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が夢に現れ、その言葉に従って天平瓦と御神酒をの器をつくって天神地祗を祀り、勝利を祈願した。

10月、磐余彦は軍を発して国見岳で八十梟帥を討った。11月、磯城に攻め入り、八咫烏に遣いさせ弟磯城は降参したが、兄磯城が兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。

12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雹が降ってきた。そこへ鵄(とび)があらわれ、磐余彦の弓の先にとまった。すると電撃のごとき金色の煌きが発し、長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかった。饒速日命は長髄彦を殺して降伏した。

翌巳未の歳の2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この地を葛城と称した。これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。庚申の歳、大物主の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とした。

即位
辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、磐余彦は橿原宮で践祚され、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した。52歳であった。

神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。

神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。

神武天皇31年、巡幸して、腋上の丘に登り、蜻蛉(あきつ)のとなめ(尾)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。

神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。

崩御
神武天皇76年、127歳にして崩御した。

系譜
天皇系図 神代

父は彦波瀲武??草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は玉依姫命(たまよりひめのみこと)。

『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では、四男。第三の一書のみ、三男と作す。なお生年月日の記述は記紀にはない。兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。

* 妃:吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売) - 阿多小椅君の妹
o 手研耳命(たぎしみみのみこと) 
o 岐須美美命(きすみみのみこと、研耳命。古事記のみ)
* 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) - 大物主の女
o 日子八井命(ひこやいのみこと、彦八井耳命)
o 神八井耳命(かむやいみみのみこと) - 多朝臣・阿蘇国造・科野国造・火国造等の祖
o 神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと、神沼河耳命・綏靖天皇)

神武天皇の非実在説
神武天皇が即位したという辛酉の歳(紀元前660年)は弥生時代にあたる。明治時代に入り、近代歴史学が導入されると、歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだという原則が広く承認されるようになった。しかしこの原則を古代史に当てはめると、皇室の歴史を直接疑うことにつながる故に、長らく本格的な史料批判は行われないままであった。それでも早くから、初期の天皇が非常に長命であることや、紀年が古すぎることに疑問を持つ者はいた。たとえば明治の歴史学者那珂通世は日本書紀の記述を批判して、記紀の紀年は「辛酉革命説」に基づく編者の創作であろうと論考した。

日本古代史に真の意味での史料批判が展開されるのは大正期の津田左右吉を待たなければならない。津田は記紀の成立過程に関して初めて本格的な文献批判を行い、神話学、民俗学の成果を援用しつつ、神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室が日本を支配するいわれを説明するために述作された日本神話の一部として理解すべきであると断じた。戦前彼の著書は不敬であるとして発禁処分とされたが、戦後になって天皇制のタブーが解かれると、多くの歴史学者によっておおむね妥当な推論であるとして支持されるようになった[2][3]。

こうした経緯から現代の歴史学界では神武天皇の存在は前提とされていない。したがって神武天皇に関する説話は何らかの形で創作されたものであるとする意見が強く、崇神天皇、応神天皇、継体天皇、または記紀編纂時期の天武天皇を基に創作したとする「モデル論」も盛んである[4][5]。また、神武東征物語は邪馬台国の東遷(邪馬台国政権が九州から畿内へ移動したという説)がモデルであるとする説もある。現代のアカデミズムに属する学者による標準的な日本古代の歴史叙述では、この時代は主として考古学を証拠として記述されている[6]。

即位年月日
神武天皇の即位年月日は、日本書紀の記述に基づいて、明治以来、法的・慣習的に紀元前660年の旧暦元旦、新暦の2月11日とされている。

紀元前660年とされた経緯
『日本書紀』は年月日は全て干支で記しており、即位年月日は「辛酉年春正月庚辰朔」とある。

太陽暦(グレゴリオ暦)が1873年(明治6年)1月1日 から暦として採用されたが、それに先立って、紀元節が旧暦である天保暦の正月(旧正月)とはならないようにするため、神武天皇即位の日をグレゴリオ暦の遡り暦に換算して、紀元節を特定の日付に固定する必要が生まれた。文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して2月11日という日付を決定した。具体的な計算方法は明かにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。

干支年は、後漢の建武26年(50年)に三統暦の超辰法をやめ(元和2年に正式改暦)以降は60の周期で単純に繰り返しており計算できる。神武天皇の即位年の「辛酉年」は『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に計算すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと、グレゴリオ暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。なお、『日本書紀』はこの日が「朔」、すなわち新月の日であったとも記載しているが、朔は暦法に依存しており「簡法」では計算できないので、明治政府による計算では考慮されなかったと考えられる。当時の月齢を天文知識に基づいて計算すると、この日は天文上の朔に当たる。

諡号・追号・異名
「神武天皇」は、762年(天平宝字6年)〜Template:和暦764に淡海三船により選定され追贈された漢風諡号である。

和風諡号は次のとおり。
『日本書紀』の神武紀には「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す」とある。また、神代紀第十一段の第一の一書に「次に狭野尊(さののみこと)。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有(しろしめ)す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す」とあるが、第二の一書に「次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊」、第三の一書に「次神日本磐余彦火火出見尊」、第四の一書に「次磐余彦火火出見尊」と似た名を挙げている。

一方『古事記』には、「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」「豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)」「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」の名が見える。

「神日本」は美称で、聖徳を称えた表現。「磐余」は大和の地名。奈良県磯城郡桜井村・阿部村・香具山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。5世紀から6世紀にかけ、磐余はたびたび皇居の地に選ばれた。

皇居・橿原神宮
都は橿原宮(かしはらのみや、奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮が伝承地)である。『古事記』に「畝火之白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」、『万葉集』に「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」とある。

「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、1888年(明治21年)2月に奈良県県会議員の西内成郷が内務大臣山縣有朋に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の御勅許が下り、県が「高畠」と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(1890年に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。

1911年から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落208戸、1054人が1917年(大正6年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。

なお、1938年(昭和13年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま十六平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚氏(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から2600年前のものであり、その前後の誤差は± 200年ということであった。このことから記紀の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある[7]。

またこの時期、第二次拡張事業(1938〜40)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊−三、五冊−五(橿原神宮所蔵))

なお、この事業は国費及び紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。

陵墓・霊廟
『古事記』には、137歳で亡くなり、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」御陵は、畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にありと記されており、『日本書紀』には127歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵」畝傍山の東北陵に葬ると記されている。また、壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したと言う記事がある。天武期には陵寺として大窪寺が建てられたとみられる。

『延喜式』によると、神武天皇陵は、平安の初め頃には、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたが、中世には神武陵の所在も分からなくなっていた。

江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こっていた。一方、水戸光圀が『大日本史』の編纂をはじめた頃幕府も天皇陵を立派にすることで、幕府の権威をより一層高めようとした。

元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われた。その時神武天皇陵に指定されたのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だった(現在は第二代綏靖陵に治定されている。)。しかし、畝傍山からいかにも遠く、山の上ではなく平地にあるので別な説が出てきた。それは、福塚よりも畝傍山に少し近いミサンザイあるいはジブデン(神武田)というところにある小さな塚である(現在の神武陵)。その後また、丸山という説も出てきた。これが最有力説であったが、神武陵は、1863年(文久3)にミサンザイに決まった。幕府が15000両を出して修復した。このとき神武陵だけでなく、百いくつの天皇陵全体の修復を行った。神武陵は転々としてきた歴史がある。国源寺は明治初年、神武陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。

陵墓は、奈良県橿原市大久保町の山本ミサンザイ古墳が、畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁により定められている。現在、橿原市大久保町洞にあり、大正時代には、高市郡白檮(かし)村大字山本であったが、同じ場所である。大久保(大窪)または山本である。畝傍山から約東北に300m離れていおり、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっている。

また、神武天皇から昭和天皇に至るまで、歴代天皇は皆、皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。

基礎データ
* 代数:初代
* 御名:神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)
* 父:彦波瀲武??草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
* 母:玉依姫命(たまよりひめのみこと)
* 皇居:畝傍山橿原宮(うねびやまかしはらのみや)
* 皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)
* 在位:
* 崩御:
* 陵:畝傍山東北陵(うねびやまうしとらのみささぎ)

脚注
1. ^ 神武天皇即位年(辛酉年(紀元前660年?))を元年とする紀年法。
2. ^ 三品彰英は神武東征説話の骨子と高句麗の開国説話が類似しているとする。
3. ^ 林房雄には晩年に次のような著作がある。 林房雄『神武天皇実在論―よみがえる日本古代の英雄』 光文社 1975年、林房雄『天皇の起源』 夏目書房 2002年(再刊)
4. ^ 安本美典は独自の年代論から「モデル論」を否定し、神武天皇を実在の人物が神話化した存在とする。また、神武東征は邪馬台国の東遷が神話化したものとする(『神武東遷―数理文献学的アプローチ』 中央公論社 1968年 他)。
5. ^ 植村清二に次の著作がある。植村清二『神武天皇―日本の建国』 中央公論社 1990年
6. ^ 一般に記紀の記述及び神話伝説の解釈が学問的な評価を得るには、考古学的資料による裏付けが必要である。
7. ^ 「生命の教育」 平成8年5月号、「科学的根拠のある神武天皇伝説」『生きる知恵 第9号』 季刊・東神会出版室、出雲井晶『教科書が教えない神武天皇』 産経新聞ニュースサービス 1999年、樋口清之「日本古典の信憑性−神武天皇紀と考古学」『現代神道研究集成9巻』 神社新報社 1998年

関連項目
* 天皇の一覧 - 神武天皇など、古い天皇の実在性について記述あり
* 欠史八代 - 第2代〜第9代天皇の実在性について記述あり
* 欠史十代 - 名称は似ているが、欠史八代とはまったくの別物
* 多氏
* 神武景気
* 宮崎神宮
* 嵐寛寿郎 - 映画で神武天皇を演じている。(『皇室と戦争とわが民族』 1960年、新東宝映画 監督:小森白 五十鈴姫:三ツ矢歌子 長髄彦:大谷友彦)
* 八木倍年説 - 実在説の一種
* 日本書紀
* 古事記
* 古語拾遺
* 海東諸国紀
* 日東壮遊歌

外部リンク
* 神武二人 - 倭太郎
* 神武天皇・畝傍山東北陵 - 宮内庁
* 橿原神宮

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綏靖天皇

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●神武天皇即位紀元
栄町下組だんじり(屋台)の彫刻図柄になっている「神武天皇」についての豆知識です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用させていただきました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E7%B4%80

神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、初代天皇の神武天皇の即位を元年(紀元)とする日本の紀年法である。

通称は皇紀(こうき)と言い、他に皇暦(こうれき)、神武暦(じんむれき)、神武紀元(じんむきげん)、日紀(にっき)[1]などともいう。単に紀元とも略された。年数の英字表記では、KokiをHeiseiなどと同様に使い、皇紀2600年を Koki 2600 などと書く。

概略
神武天皇即位紀元は西暦(グレゴリオ暦)よりも660年大きな値となる。このずれは年により変わることは無く一定である。例えば西暦2000年は、神武天皇即位紀元(皇紀)2660年となる。

明治から昭和20年の終戦までは元号と共に神武天皇即位紀元がよく使用されていた。現在では公の暦で神武天皇即位紀元をみることはほとんどないが、公式に廃止されたわけではない。現在でも、法令上は元号とグレゴリオ暦と共に神武天皇即位紀元が使用されており、例えば閏年の置き方はグレゴリオ暦ではなく神武天皇即位紀元を元に決められている(明治31年5月10日勅令第90号)。その他にも、日本史や日本文学などの愛好家、神道(国家神道)の関係者、全日本居合道連盟などが使用している。

アメリカ中央情報局のWebページにある"The World Factbook"(各国要覧)の日本の項目には、"Independence: 660 BC (traditional founding by Emperor JIMMU)"とされている。

ただし、神武天皇はその存在の実証が困難であり、また古墳の出現年代などから考古学上はヤマト王権の成立は西暦紀元後2世紀前後であるとされているため、神武天皇が西暦紀元前660年に即位したことが事実であるとは考えられていない。考古学的には、この時期は弥生時代前期にあたるが、古くは縄文時代晩期とされていた。

なお、1938年(昭和13年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄の指揮による橿原神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期〜晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま十六平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚氏(東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から2600年前のものであり、その前後の誤差は± 200年ということであった。このことから記紀の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある。[2][3][4][5]

制定
明治5年旧暦11月15日(当時の日本の暦は太陰太陽暦の天保暦で、太陽暦のグレゴリオ暦だと1872年12月15日)の太政官布告第342号により定められたもので、明治6年(1873年)1月1日の日本における太陽暦採用と同時に施行された。

太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典(明治5年太政官布告第342号)[6]
今般太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者[7]参朝可憚事

紀元前660年となった根拠
干支は60年の周期で単純に繰り返すので簡易に計算できる。そのため神武天皇の即位年の「辛酉年」は日本書紀の編年から遡ると紀元前660年に相当することになる。

明治時代に歴史学者那珂通世が、日本書紀はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説(しんいせつ)を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から逆算して1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた[8]。これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉(しんゆう)年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)という事に因む。

辛酉年の春正月の朔(訓はつひたち、新月すなわち月齢0=太陰太陽暦では常に1日で、このときの干支は庚辰)に、天皇、橿原宮に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳を天皇の元年とす。(「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条)。

戦時下における紀元2600年

紀元二千六百年記念行事を参照

ちなみに一般にゼロ戦としてよく知られている大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき)」は、この年に採用された事に因んだ名称である(兵器の制式名の数字は皇紀の下二桁によっていたから)。大日本帝国陸軍の場合、同年制式採用兵器の数字は百式重爆撃機、一〇〇式司令部偵察機、一〇〇式輸送機など海軍と異なり零ではなく百(一〇〇)としている。

皇紀と安田生命保険
この記事の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。

安田生命保険(今の明治安田生命保険)は1970年代に個人情報管理のシステムを構築することになった。その際システムの担当者は、20数年後に生じるであろう2000年問題を予測していた。そこで、年号の下2桁にグレゴリオ暦や元号ではなく神武暦(グレゴリオ暦−40年)を使用した。そのことにより、安田生命保険は2000年問題を40年先送りした。

類似の紀元
日本の「皇紀」以外にも、西暦やイスラーム暦と異なる独自の紀元を立てたり、あるいは古くからあったものを西暦にかえて使った事例がある。以下はその例。しかしいずれも使用された期間は短く現在では使われていないものが多い。

* 成紀(ジンギスカン紀元。東部蒙古王公領・蒙古連合自治政府)
* 突厥紀元(トルコ紀元。トルコ共和国。モンゴル高原での初代突厥可汗の即位元年)
* アケメネス紀元(キュロス紀元とも。イラン。これは古くからあったがパーレビ王朝で公式採用)
* 仏滅紀元(タイ。東南アジア諸国で昔からあったもので今でも使われている)
* 黄紀(中国)
* 檀紀(大韓民国)

1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。

* エチオピア暦

参考文献
* 坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店〈岩波文庫〉、1994年(初出1993年)。ISBN 9784003000412。

脚注
1. ^ 東方年表など
2. ^ 「生命の教育」平成8年5月号
3. ^ 季刊・東神会出版室 生きる知恵 第9号『科学的根拠のある神武天皇伝説』
4. ^ 出雲井 晶『教科書が教えない神武天皇』
5. ^ 樋口清之「日本古典の信憑性−神武天皇紀と考古学」神社新報社『現代神道研究集成9巻』所収
6. ^ 内閣官報局編『法令全書』、国立国会図書館・近代デジタルライブラリー
7. ^ 「服者」(ぶくしゃ)とは、近親が死んだために、喪に服している者のこと。
8. ^ 『日本書紀(一)』補注(巻第三)一八 400頁

関連項目
* 紀年法
* 紀元
* 和暦
* 紀元二千六百年記念行事

外部リンク
* 明治五年太政官布告第三百四十二号(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
* 明治三十一年勅令第九十号(閏年ニ関スル件)(法令データ提供システム)
 
テーマ:祭り/イベント - ジャンル:写真


















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